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2004年12月24日 (金)

この1年+12月26日付+

  今年最後の主日を迎えました。この1年、どのような年だったでしょうか。教会の10大ニュースを募集するのも面白いかも知れません。
 途中からですが、私の感ずるビッグニュースをいくつか挙げてみましょう。
 まず、私たちは4月から当教会に迎えて頂きました。その前には14年間お交わりを戴いた西川口教会の愛する兄弟姉妹との別れがありました。出会いがあれば別れもあるのが私たちの人生です。別れは寂しいが、それ以上の出会いの喜びがあります。篤い祈りをもって私たちを迎えてくれた敬愛する兄姉たちの故に主に感謝します。
 4月11日のイースターが、当教会での最初の礼拝でした。私はヨハネ福音書から「復活の主と弟子たち」と題して、「シャローム(平和あれ)」という復活の主の弟子たちへの第一声を取り次がせていただきました。それは、主の声であると共に、私たちから皆さんに贈りたい第一声でもあったのです。新年も、前途に何があるか分かりませんが、シャロームという主のみ声を聞きつつ前進して参りましょう。
 悲しかったことは、若い教師たちを天に送ったことでした。教会やホーリネスの群、東京聖書学校に大きな穴が空きましたが、私の心にも空洞ができました。
 教会でも、今年は数名の兄姉を天に送りました。天国は賑やかに、地上は寂しくなりました。新年は、新しい兄弟姉妹を神の家族として迎えることが出来るように祈り、励みましょう。
 7月には私たちの就任式、8月は夏期聖会、CSキャンプ、聖書学校のキャラバン伝道等に暑い夏を送り、秋からクリスマスまでもいろいろありました。教会のホームページが開かれたことも大きなことでした。かくして、「激動の年」(A兄の祈祷会の証)は幕を閉じようとしています。さて、迎える新年の主のご計画は?

2004年12月16日 (木)

4本のろうそく+12月19日付+

  アドベント・クランツの4本のろうそくに灯が灯りました。いよいよクリスマスです。
 4本のろうそくの灯にはそれぞれ意味があると聞きました。それは、希望・平和・喜び・愛を意味すると。それは誰もが望むものです。これは「信仰・希望・愛」にも通じ、また、聖霊の結ぶ実である「愛・喜び・平和・・・」(ガラテヤ5・22)にも通じます。
 これらは、いずれもイエス・キリストの内に見られるものです。主イエスの生涯が信・望・愛そのものであり、聖霊の結ぶ実は主イエスの品性に鮮やかに現れていました。主は、これらの実現のために世にお出でくださったのです。
 しかし、私たちの現実は遠くかけ離れています。「神なく望みなく」さ迷い続け、愛が冷えて、家庭の崩壊まで始まっているのです。それならば尚のこと、4本のろうそくの灯を見つめながら、フランシスの「平和の祈り」を祈りましょう。

 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください
 憎しみのあるところに愛をもたらし、
 いさかいのあるところに許しを、
 争いのあるところに平和を、
 分裂のあるところに一致を、
 迷いのあるところに信仰を、
 誤りのあるところに真理を、
 絶望のあるところに希望を、
 悲しみのあるところに喜びを、
 闇のあるところに、
 光をもたらすことができますように。

 神よ、わたしに
 なぐさめられることよりも、なぐさめることが
 理解されることよりも、理解することが
 愛されることよりも、愛することができますように

 なぜなら、与えることによって与えられ、
 自分を捨てて初めて自分を見出し、
 許すことによって許され、
 死ぬことによって永遠の生命を与えられるからです。



2004年12月10日 (金)

どんなクリスマスを+12月12日+

 クリスマスはプレゼントをもらうときです。しかし、プレゼントをもらううれしさは子供の時だけのことでしょうか。パウロ先生は面白いことを言っています。
 「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」(フィリピ4・17)
 少し説明を要するでしょうか。パウロは獄に囚われていました。フィリピの教会の人々は、先生を心配して贈り物を送りました。それはパウロを喜ばせました。思わず、大きな喜びと感謝の言葉を書き送っています。しかしそう書くからと言って、もっと贈り物を送って欲しいという風に誤解しないで欲しいというのです。パウロが喜んでいるのは何よりも、パウロのことを心配して、祈りをもって贈り物を送ってくれた彼らの心であります。それは「香ばしい香りであり、神が喜んで受け入れてくださるいけにえです」(18節)と言うのです。それはフィリピの信徒たちが、必ず神の祝福を受ける結果となることを確信しているからです。
 贈り物ばかりではありません。何気ない一言にも表れます。いつまでも子供だと思っていたのに、いつの間にか他人を配慮できる大人の感覚を身につけていることに驚かされることは、多くの親たちの経験していることでしょう。人の親でもそうであれば、まして神さまは私たちに何を願っておられるか想像がつきます。
 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16・7)
 主イエスはレプトン銅貨2枚を献げた貧しいやもめの献げものを何よりも喜ばれました(マルコ12章)。これらの聖書の言葉から、どのようなクリスマスを主は一番喜ばれるか、大体見当がつくのではないでしょうか。今年も主の喜ばれるクリスマスを迎えたいと思います。

2004年12月 2日 (木)

涙+12月5日付+ 

  「涙と共に種を蒔く人は、喜びの声と共に刈り入れる。」(詩編126・5)
 きょうは創立95年復興59年の記念礼拝を捧げる。創立時の苦闘があり、復興の時の涙がある。どちらも容易ではない。もちろん、教会を建てたもうのは主であって、人間ではない。しかし、主をお乗せする子ろばも必要なのだ。先輩たちの血の滲むような苦闘があって、今日の私たちの教会があることを覚えよう。
「殉教者の血は、教会の種子である」という昔からのことばがある。また聖書にも「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この十字架の原理で進んできたのが教会であり、それはいつの時代にも変わらない。平和の時代には血を流さない代わりに、涙が流される。主は、その流された涙の一滴一滴を覚えておられるお方である。
 私の忘れ得ない中島代作師の涙がある。
 中島ヤス先生の死を契機に献身を決意して、代作先生のご指導で三年間の学びを終え、いよいよ教会に遣わされる段になった。しかし、中島先生から具体的な話は何もなかった。東北教区総会で補教師の准允を受け(中島豊師は正教師の按手礼を受けられた)、その年、代作先生にホ群の年会に初めて連れていっていただいた。私には全く新しい世界で、東京聖書学校を卒業して教師となった人たちがまぶしく見えた。結局、その年会では何の話もなく、代作先生と仙台に戻るために上野に出て、時間つぶしに上野公園の芝生で休んだ。そこで私は、「しばらく札幌に帰ろうかと思う」と言ったら、しばらく黙っていた先生が涙を流しながら「君は何も心配することはない。献身者は神さまが責任を持って下さるのだから」と言われた。私は父親のような先生の愛を強く感じ、その涙を忘れることができない。皆さんにも忘れられない父や母の涙があるのではないか。

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