卒 業 式
今週は東京聖書学校の卒業式である。今年の卒業生は唯一人である。学年によって多いときと少ないときといろいろある。それにしても、もう少し献身者が起こされることを祈っている。
数年前の卒業式で、こんなことがあった。式の開始時間が迫ったが説教者が到着しない。時間が来たので式は始めたが、なかなか到着しない。待つ方は気が気でない。しかし、待ち人来たらず、とうとう説教の時間が来てしまった。
メモが回って来て、家に連絡したがとうに家は出られたという。携帯電話を持っていたら連絡があるだろうが、そういうものを持っておられないのだろう。司式の先生も必死で引き延ばしてくださったが限度がある。普通は説教がなされてから証書授与となるが、順序を逆にして先に証書の授与も行った。私の後列に座っておられたY委員長は、私の背中を押して「校長が代わって説教せよ」という。そんな芸当は出来ない。進退窮まるとはこういうことである。とにかく講壇に上り、事情を説明して、卒業式後の感謝会で卒業生に送る予定で準備した聖書の言葉を読み、簡単な奨励をした。続いて、教区議長や2、3の来賓の祝辞があって、どうやら卒業式の格好がついてヤレヤレの思いで式を終えた。今思い出しても冷や汗ものである。記念写真を撮って、食堂で感謝会が始まる頃に、ようやく説教者が到着した。車を運転したご子息が、高速道路の出口を間違ってそんなことになってしまったようだ。人間だからミスはつきものだ。やむを得ない。
それにしても、ときどき夢みるのは、どうしても説教が出来ない夢、説教ノートを忘れた夢などである。夢に見る説教はたいてい苦しいものばかりだ。ルターはまれに見る説教者だったが、ずいぶん説教で苦労して、後輩に遺した言葉は、「説教で苦労せよ」だった。苦労する中で、少しは人の心に響く説教が生まれてくるのだという教訓と受け止めている。卒業式から最後は説教の話になったがお許しを。

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