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2005年3月26日 (土)

復活の主と共に+3月27日付+

 きょうはイースター、そして、年度の締めくくりの主日である。私たちは昨年のイースター(4月11日)からこの教会でご用を始めて、イースターで年度を終わるのもひとしお感慨深い。
イースターは新しい出発である。主イエスを十字架につけた人々は、これでイエスに勝ったと思った。十字架刑は最も重い死刑であり、イエスの名声もメシアとしての期待もこれで吹っ飛んだと思った。イエスとその弟子たちの側から見れば、彼らの「神の国運動」は完全に挫折したかに見えた。しかし、事実はそうではなく、そこから始まったのだ。主の復活は、弟子たちにとって起死回生の出来事だった。弟子たちを代表するペトロは、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒言行録2章)と力強く証しした。 
この教会から献身されて先年天に召された小田島嘉久師は「敗者復活の恵み」という説教の中で印象深い証しをしておられる。師が第二高等学校在学中に健康を損ねて勉学も思うように進まず悩んでいた。その頃、土井晩翠の書生となって、お嬢さん(照子さん)の病と死を身近に体験した。初めてキリスト教に接し、深く感銘を受けたのだ。彼も熱心に求道し、ついにキリストの十字架と復活の恵みに与ることが出来た。それはご自身にとって敗者復活の恵みであったと言う。
イエス・キリストの生涯が十字架の死で終わっていたら福音にはなり得なかったであろう。
「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
       (コリント第1 15章)
私たちは、自らの挫折や敗北を乗り越えて、復活の主の勝利に与り、生ける主と共に新年度も力強く前進して行きたいと願っている。

2005年3月18日 (金)

我が家の老犬(2)

 今週は受難週である。週報短文では受難週の黙想になっているが、ホームページでは我が家の老犬についてもう少し書かせて頂こう(ちなみに、この短文に日付がないのは、週報短文とは別という意味である。過去にも2、3度そういうことがあった)。
 この頃はペットブームだが、家に動物を飼うことは安易な気持ちでは出来ない。たかがペットと思うかも知れないが、家族が1人増えるようなものである。我が家でも、どうかすると愛犬に1日振り回されることもある。特に、2人で旅行に行くような場合にどうするかということである。前任の教会では、預かって下さる家があったので大変助けられた。ラビも心得たもので、その家に連れていくときにはいそいそと車に乗ってくれた。その家の犬とも仲良しで騒いだりせず、我々が迎えに行くまでおとなしく待っていてくれた。
 しかし、当地に来て日が浅い私たちには、犬を預かってくれる家がない。そこで、近所の犬のホテルをラビと共に訪ねてみた。しかし、話を聞いてみると、簡単ではない。
「お宅の犬はとても無理です。そういう経験が全くない犬は、当店ではおかしくなってしまうかもしれません」
と、断られた。無理もないと思った。飼い主でさえ持て余すときがある。まして、こんな犬を預かる方の身になれば、1日○千円くらいでは、間尺に合わないだろう。しかし、4月にはどうしても2、3日、2人で行かねばならない時がある。そこで話し合って、ラビも連れていくことにした。新幹線で行けば早くて簡単だが、当地に引っ越してきたときのように、再度川口まで車で行こうということになった。そして申し訳がないが、例のお家にまた預かって頂こう。なにしろ、このところすっかり老いて、車高が高い私の車には、自分で上がれないようになってしまった。老いると言うことは、人でも犬でも容易ではない。

2005年3月11日 (金)

我が家の老犬

 我が家には1匹の老犬がいる。赤ちゃんの時に子供に拾われて、その子の家にはすでに犬がいたので教会に持ってきたのが始まりだった。子犬はたちまち教会や近所のアイドルになった。名前は、牧師が以前に預かっていた犬の名をもらってラビとした。ラビ2世である。聖書では、ユダヤ教の教師をラビと呼ぶが、そんな偉い名前ではなく、ラビットの短縮形らしい。しかし、教会でラビと言えば権威がある。イエス様だってラビと呼ばれたのだから。
 ラビは若い頃は痩せて格好が良かったが、いつの頃からか太りだして、狸かアライ熊のようなスタイルになってしまった。1日1食を原則としているが、この頃は1食では満足できなくなった。肉の缶詰とパンの耳が常食で、ドッグフードはよほどお腹のすいたときしか食べない。おやつは何でも食べるが、特に甘い物には目がない。しかし、最近欠かせないものがある。それはサツマイモである。これを食べないと便秘に苦しむことになる。以前は、朝の散歩の途中で苦もなく済ませたのに、この頃は近所の公園で、長いときは30分も断続的にしゃがみこんでいる。見ている方がつらくなる。足も弱ってきて、以前のような排便の姿勢も困難になってきた。それも原因の1つかも知れないが、なかなか思うように出ない。けれどもサツマイモを食べさせておくと、比較的快便である。これは昔、東京の教会で10年仕えた老牧師がそうだった。健康そのものの人だったが、晩年はずいぶん足が弱り、歩くこともままならなかったが、その老先生の、快便のための必需品がサツマイモだった。
 愛犬ラビも歩き方がスローになって、後ろを振り返りながら休み休み歩く。老牧師も白内障で難儀したが、ラビも目が弱くなってきたようだ。今は、人で言えば70歳と言うところだろうか。これからどんな風に老いていくのか気懸かりだが、老犬の介護は老人の介護に似ているところがある。だんだん老境に向かう我が身にてらして、身につまされるところが多い。愛犬と共に上手に老いたいと願っている。

2005年3月 5日 (土)

「どちらに向かって?」+3月6日付+

 先週の伝道礼拝で、「人は何のために生きるのですか」と皆さんに問いかけて、私も一瞬考えました。聖書の答えははっきりしている、それは「神のためである」と。しかし、仮にそうだと認めても、私は神のために生きるとは言えない人もいる。そう言う人はどうなのだろうか。
 それで、もう一つの言い方をしてみたいと思います。それは、人生の方向ということです。どちらに向かって生きるのか。例えば、新幹線に乗る場合、東京に向かうか、盛岡に向かうかでは大違いです。新幹線に乗ってから、本を読んだり居眠りしたり、それは各自の自由です。しかし、何をするにしても、まず目的地を定めて正しい列車に乗らなければ、後で大変なことになります。 
 聖書は、人は神に似せて創られたとありますが、これは「神に向かって」創られたと考えることが出来ます。本来は神と語り合うことが出来る者として創られたということです。しかし、神に背を向けてどんどん自分勝手の道を行ってしまった。その終わりがどうなるのか、それが心配でならないのです。これが新幹線ならば、どこかでUターンをしなければ、どうしても目的地に着くことはできません。
 私たちは毎日祈っています。
「御名が崇められますように。
御国がきますように。
御心が行われますように。天におけるように
地の上にも。」
 皆さんもお気づきになられたでしょうか、「アパルーム」では何度もくどいくらいに主の祈りの全文が出てくるのです。もう分かっていると言いたいくらいですが、編集者はそうする必要性を強く感じているのでしょう。一日のはじめ、私たちはどちらに向かって歩こうとしているのか。
「神に向かって生きる」ということを銘記したいと思います。


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