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2005年7月25日 (月)

岸 義紘先生を迎える

 7月30日夜に開かれるチャペルコンサートに岸義紘牧師を迎える。岸先生は2001年から2010年までの10年間に2001回のゴスペルコンサートを開くべく、精力的に取り組んでおられる。先生はれっきとした神学校の校長であり、しかも巡回伝道者であるから、その上に年に200回のコンサートを開くことがどうして可能になるのか凡人には想像もつかないが、「福音のためには、どんなことでもする」という使徒パウロの心意気で戦っておられるのだろう。
先生のお名前は以前から知っていたが、お目に掛かったのは10年余り前のことだった。あれは伊豆の天城山荘だったであろうか、何かの特別集会に先生が講師の一人として招かれた。その時、先生の説教を初めて伺ったが、内容は覚えていないが、今も忘れないのは、先生が泣きながら話されたことである。説教者が時に絶句することはあるが、泣きながら話す人は珍しい。この方は本当に主を愛する方なのだと大きな感銘を受けたことを覚えている。
次は数年前に、浦和の教会のチャペルコンサートでサックスの演奏を聴いたことである。これもなかなか感銘深いものであった。その時、「荒城の月」を演奏されたので、私はコンサートの後に小田島嘉久先生の説教集から土井晩翠とその嬢さんの臨終のときのことを資料としてお送りした。さらに、お忙しい先生に無理をお願いして、その翌年であったか、西川口教会の特伝の講師にお出で頂き、チャペルコンサートと特別礼拝の説教していただいた。説教題は覚えていないが、いきなり食卓の上を「皿が飛ぶ」という話から始められたのには度肝を抜かれた。巡回伝道者の話は、普通の牧師と違って、何が飛び出すか分からないところが面白い。
プロフィールを見ると、先生はスポーツマンで、競泳シニアクラスの日本記録保持者でもある。健康維持のためでもあろうが、日頃水泳を欠かさないとも伺っている。牧師の健康管理と時間の使い方について、講演会を開いて頂きたいと思うほどである。

2005年7月16日 (土)

「新しいぶどう酒」2+7月17日付+

 最近、アパルームに従ってヨブ記を通読したが、32章に登場するエリフの言葉に興味を持った。
「見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋、新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ。わたしも話して、気持を静めたい。唇を開いて、答えたい。」(32・19、20)エリフは年若かったから、熟年のヨブやヨブの友人たちの前で初めは遠慮していた。しかし、友人たちがヨブを説得できない様子に我慢ができなくなって、話し始めるのである。エリフの気持がよく分かるのではないか。そして、とうとうと続く彼の言葉は、重々しく雄弁で説得力もある。ヨブは何と答えるだろうかと興味をそそられるが、結局ヨブは沈黙を守り、神が介入する。「これは何者か。知識もないのに言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と、神に叱られる。ヨブの3人の友人たちも神に叱られ、最後に悔い改めたヨブのとりなしの祈りで壮大なドラマの幕が下りる。
初めのエリフの言葉に返って、彼は先輩たちの話を聞きながら、ふつふつと発酵する新しいぶどう酒のように、黙っていたら自分の胸が革袋のように張り裂けるような興奮を覚えたのである。しかし、ほとばしり出た彼の言葉は、神の喜びたもうものではなかったというところが考えさせられる。
 同じく若い預言者エレミヤは、神の言葉を授かり、それを語れと命じられ、「語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と神に降参している(エレミヤ20・9)。
 話は飛んで、マルチン・ルターが九五箇条の提題を掲げて宗教改革の火蓋を切ったのは34歳、ジョン・ウェスレーがメソジスト運動に立ち上がったのが35歳、我らの中田重治がホーリネス運動を開始したのは31歳であった。「神の方法は人である」というバウンズの言葉があるが、神は今日も若い人を用いて新しい業を行おうとしているのではないか。

2005年7月11日 (月)

あなたにとってイエスとは?

 あなたにとってイエスさまは、どういうお方でしょうか。かつて私の友人は「俺はイエスが好きなんだ。だから、牧師になったのだ」と言いました。私はびっくりしました。そういう発想は私には全くなかったからです。
 シモン・ペトロにとっては、ガリラヤ湖畔での忘れられない出逢い、力強い説教、多くの病人を癒し、湖の上を歩き、僅かのパンと魚で大勢の人を飽かせ、山の上では恐ろしいまでに輝き、また、主を裏切ったとき自分をじっと見詰めたあの眼差し、十字架上の叫び、・・・ひとつひとつ忘れがたい思い出として彼の脳裏に焼き付いていたでしょう。
 使徒パウロにとっては、そのような生前のイエスの思い出は何もなかったのです。彼は生前のイエスを知らなかったのですから。パウロにとって、イエスは、敵対する自分のために十字架にかかって死んで下さったお方であり、あのダマスコ途上で主の弟子たちを迫害する自分に顕れて下さったお方であったということ、そのことを彼は何度も語り、また、手紙に書きました。
 私にとってイエスとはどういうお方か。「イエスは主である」と告白して主の弟子となったお互いですが、主イエスへの思いは同じではないと思います。私とってはどうであろうかと改めて考えてみた時、「わたしを愛しているか」というペトロへの問いかけが響いてきました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、ペトロのように答えました。でも、一度では足りず、やはり3度答えてみると、「本当にそうか」という主のみ声が心の内に響きました。どうして、主を愛するのか。「俺はイエスが好きなんだ」と言った友人の言葉は、「わたしを愛するか」という彼への主の問いかけに対する答えだったのだろうかとも考えました。そして、心に思い浮かんだみ言葉は「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」(ペトロの手紙一 1・8)でした。このような恵まれた信者でありたいと心から願いました。

2005年7月 4日 (月)

西那須野教会

 去る6月26日はお招きを受けて西那須野教会へ行った。友人のU牧師が3年ほど前から牧会しておられる。短時間ながら教会の皆さんと交わりの時を与えられ、地方教会としては特殊な教会であるとの印象を受けた。
 那須はご承知のように避暑地である。軽井沢ほどではないとしても、セカンドハウスを那須に建てる人は多い。夏は観光客で賑わう。ところが、那須にセカンドハウスを求めた人は、首都圏から那須に越してしまう人も多いと聞く。那須から新幹線で通勤するのである。確かに、時間的には通えない距離ではない。また、引退して那須に住む人もかなりいる。医者や大学教授も何人かいる。
 さらに、教会の近くに「アジア学院」という農業研修センターがあって、アジア、アフリカからの研修生たちが研修している。その研修生たちも西那須野教会に出席する。だから、礼拝では英語の同時通訳がある。去る26日は「アジアサンデー」に当たり、研修生たちが近隣の諸教会に分散して出席し、証しや説教をする日とのことで、西那須野教会の礼拝に出席した人は少なかったが、インドから二人の姉妹たちが出席した。
 そんなことで、国際色も豊かで、田舎の教会という感じが全くなく、礼拝もパイプオルガンやバイオリンの独奏も入る音楽的にも豊かなものであった。さほど広くない礼拝堂は百名近くの会衆で一杯だった。礼拝後のカレーライスをいただく愛餐会も和気藹々で楽しかった。信仰歴も長く賜物の豊かな人々をまとめて、U師はよい牧会をしておられると敬服した。
 近くには那須や塩原の温泉もあり、源泉も豊かであると聞く。緑が美しく、畑や田んぼも目を楽しませてくれる。そういえば皇室の那須ご用邸も近く、新幹線の那須塩原駅からご用邸に向かう道路はさすがに立派なものだ。那須に行ったら、一度西那須野教会をお訪ねすることをお奨めする。

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