神の憐れみとご計画
正月からアパルームの聖書通読の日課に従って、新約は黙示録まで来たが、3章の「サルデスにある教会への手紙」を読んで記憶を新たにした。3年前の6月、教会の皆さんとパウロの伝道の跡を訪ねるトルコ・ギリシャの旅に行き、サルデスの遺跡に転落したことである。シャツやズボンもすり切れて血が滲み、満身創痍といえば少し大げさだが、幸いに頭を打たなかった。「君はラッキーだ」と、トルコの医者に言われ、帰国してから精密検査を受けたが、頭の骨には異常なく、頬骨の骨折だけとわかった。これは単なる幸運ではなく、ただ神の憐れみであり、自分の傲慢を痛切に思い知らされたことだった。
「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。」(3章1、2節)
この最後のところを、新改訳は「わたしの神の御前に全うされたとは見ていない」と訳している。この訳が心に留まって、やや勝手な解釈かも知れないが、「お前のなすべきことがまだ残っているから、わたしはお前を生かしてやったのだ」という神の声が聞こえてくるようであった。
「だから、どのように受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。」(3節)あの出来事を通して、悔い改めに導かれた。私たちは、すぐ傲慢になりやすい。だから、神さまは時々、私たちをごつんと叩かれる。ハッとしてもう一度、主のもとに立ち帰る。そんなことを繰り返している愚かな者である。ルターは、「私たちの一生は悔い改めの絶えざる連続であるべきだ」と教えている。
それにしても、私のなすべくして残っていることが、第2の母教会であるこの青葉荘教会に来ることだったとは、当時は夢にも思わなかった。前任の教会では、大体自分の使命は終わったと考えて、開拓伝道に出ることを考えていたのである。「神の憐れみに満ちたご計画」にただ驚いている。

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