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2005年9月24日 (土)

「きよめ」とは何か

 9月19日に第17回「宮城聖化大会」が私たちの教会で開かれ、宮城県内を中心に遠く青森や岩手、山形からも出席者があった。今回は、インマヌエル綜合伝道団の前総理である河村襄師を講師に迎えて、日常の生活に密着した「きよめ」が語られた。
 以下は、ここに出席した1姉妹の感想である。
「聖化大会は『きよめ』がテーマで、はじめは抵抗がありましたが、自分の思いと御心が衝突したときには、一歩も二歩も譲って御心がなされますようにと祈ることが『きよめ』なんだと知ることができました。そのためには日常の生活の中で『ゆだねます。御心のままに』と繰り返し祈ることが大切なんですね。大きな戦いはあるけれど・・・」
 「きよめ」とは何かということは、いろいろな表現があるが、この感想もメッセージの中から大切な点をつかんでいると思う。
 ジョン・ウェスレーは「キリスト者の完全」を説いて、これが「きよめ」の教えの根幹をなしているが、彼は結論的に次のように述べている。
 「(キリスト者の完全とは)一面から見れば動機の純潔、全生涯を神に献げることである。神に私たちの心を全く献げることである。一つの願いと計画が私たちの全気質を支配することである。それは一部だけではなく、私たちの全霊、全身、全実質を神に献げることである。
 他の面から見れば、それはキリストの心を心とし、キリストの歩みたもうたように歩ませることである。それは神の像に心が更新されること、心を創造したもうた神に完全に似ることである。
 また別の面から見れば、それは心を尽くして神を愛し、自分のように隣り人を愛することである。
 さて、あなたがこのうちどの見解を取るにしても(これらの内容には違いがないのだが)、これこそ私が40年間、信じ教え続けてきた『完全』の全部であり、それだけであることは、私の一連の著作が示す通りである。」(「キリスト者の完全」より)

2005年9月19日 (月)

祈りの力

 9月16日は「信徒の友」の『日ごとの糧』により、私たちの教会のために全国の諸教会が祈って下さった。そして、励ましのお便りも次々に届いている。30数年も牧師をやっていると、何度かそのようなことに巡り合ってきた。そして、その度に感じたことは、「祈られている」という心強さである。いや、「心強さ」というのは言い足りない。「祈りの圧力」というか、現実に祈られていることを実感するのである。これは、おそらく私個人の経験ではなく、全国の諸教会が感じていることではないだろうか。それならば、もっとそのような証しが「信徒の友」編集部に寄せられても良いのではないかと思うが、如何であろうか。また、そのように感じるのは、教会だからこそなのだろうか。他の問題、例えば、戦争とか、自然災害の被災者のために祈りを集中して、全世界の祈りが「圧力」になるまでに力を発揮することはできないのであろうか。
祈りは、無理矢理に私たちの願いを神さまに聞いてもらおうというのではない。しかし、見たこともない人たちや教会のために祈りを合わせるというのは、人間の利害を全く越えた、純粋な愛の行為である。そこに、この執り成しの祈りの力の秘密があることを感じる。
「お祈りのお蔭で」と感謝するが、果たして本気で言っているのか。お祈りも多少の力になったという程度のことかも知れない。しかし、「皆さんの祈りによってかくなった」、という確かな証しがあれば、祈る者はどんなに励まされることであろうか。
仙台朝祷会でも、毎朝祈りの課題を決めて祈っている。しかし、仙台だけでなく全国の朝祷会が「信徒の友」のように、共通の課題を決めて祈るようにしたらどうだろうか。その祈りは力ある祈りとなって、朝祷会が再認識されることにもなるのではないか。東北教区が始めた「祈りのカレンダー」は、どうなのだろうか。これも、祈りの力を再確認する機会とさせて頂きたいと思う。

2005年9月12日 (月)

子どもたちのために祈ろう

 毎年秋に行う「東京聖書学校公開講座」は、退修会に引き続いて学校のチャペルで開かれ、講師にA師を迎えた。教団のキリスト教教育主事の草分けのお一人で、目白にある日本聖書神学校の講師として長く奉仕しておられる。「今、教会学校を考える」という題で、全国的に大きな危機に瀕している教会学校をもう一度考え直そうという意味も含めての講演であった。教会学校(日曜学校)の歴史から始めて、キリスト教教育の目的など根本的な話しと、二日目は実践的な試みなども紹介してくださった。A師は現在、更生教会の教育主事として奉仕しておられ、私たちの仲間の一人であり、更生教会は私の初任地でもあるので、お話しも身近に聴くことが出来た。
近年の傾向として、教会学校という名前を止めて「子どもの教会」とか「キッズクラス」とか多彩な呼称に変わり、名前だけでなく、その内容もいろいろ新しい試みがなされている。しかし、「これでいこう」という決定的なものはまだない。
ところが、吉川教会の報告に心打たれた。それは、最近、受洗した小学生3人が毎週祈祷会に出席して、とても良い真剣な祈りをするという。それに刺激を受けて、大人の祈りも変わってきたと。それで思い出したのは、我が家にキリスト教が入ったのは、上の兄と姉たちが日曜学校に行った事と、そこで姉たちがイエス様を信じて「家族が教会に来ますように」と熱心に祈った結果だと昔聞いたことだった。
子どもだから分からないとか、まだ無理だとか、大人は勝手に決めてしまうが、子どもの方が素直に信じて力ある祈りをすることが出来る。主イエスも「幼子のようにならなければ、神の国に入ることが出来ない」と、子どもを大人の模範とされた。
昨年、西海静雄師が天に召されて以来、吉川教会に何か新しい聖霊の息吹を感じる。神の「新しい業」は、私たちの思いを越えたところから始められるのではなかろうか。私たちもまず子どもたちのために祈ろうとの思いが与えられた。

2005年9月 5日 (月)

「信仰の源流を尋ねて」

 東京聖書学校の退修会が5日から7日まで、鬼怒川「オリーブの里」で開かれる。これは夏期伝道が終わって2学期に入る前に、夏の奉仕を反省し、新しい霊的な整えを与えられるための時である。そのために毎回テキストを定めて学ぶことになっているが、今回は日本ホーリネス教団東京聖書学院の名誉院長である小林和夫師の「信仰の源流を尋ねて」がテキストに選ばれた。一読して大変分かりやすく、私たちホーリネス信仰の源流について基本的なことがよく押さえられていると思う。
ホーリネスと言えば、すぐ「四重の福音」と言われる。小林師も初めは「四重の福音」について語ろうと考えられたようだ(ブラジル・ホーリネス教会に招かれて語った講演集)。しかし、準備を進める中で、もっと歴史を遡って4世紀頃から語らねばならないと導かれたという。だから著者の主張は、ホーリネスが何か特殊な教派でも教団でもなく、紛れもなくキリスト教会の主流であり、正統的なプロテスタント教会に属することを再確認しておきたかったということであろう。これはとかく狭く捉えられがちなホーリネス信仰を、その普遍性に注目している点で新鮮に響く。反面、最後に言及している「四重の福音」が、時間が限られたせいもあろうが少し弱かったように思われる。
近年は、私たちの群でも「四重の福音」を見直して、自分たちのメッセージとして取り戻そうという動きがあるが、なかなか軌道に乗らない。中田重治においては新鮮で生命力に溢れた福音であったが、今日では「古い伝統」になってしまった感がある。どうしたら、これを「新しい福音」として語ることが出来るか、これが課題であると思っている。
過日の当教会の役員会で、ただ協議だけではなく、役員としての研修も必要ではないかという声が出た。そのために「信仰の源流を尋ねて」を共に学ぶことも意義あることではないかと思う。私たちのアイデンティティーを確認し共有するためにも。

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