「 説 教 演 習 」
東京聖書学校も2学期が間もなく終わろうとしています。私の担当は「ウェスレー神学」と下級生の「神学通論」、そして今春から「説教演習」が加わりました。これは説教学と共に、その実践部門として原登先生が担当して来られたのですが、先生も加齢と共に耳が聞こえにくくなって、私にお鉢が回ってきたのです。果たして出来るだろうかと思いつつ始めて見ると、これがまた面白いのです。
毎回一人ずつ説教者が決まっていて、チャペルにおいて、礼拝で説教するように説教します。このために特に準備するのではなく、毎週日曜はそれぞれが首都圏の各教会に派遣されて奉仕していますから、そこですでに行った説教を、もう一度再演するのです。説教を「再演する」というのもおかしいですが、実際、そういう印象を受けます。例えば、午後の時間なのに「お早うございます」などと、朝の礼拝と同じように始めるからです。
説教が終わると、聞いていた学生達全員が、ひと言感想や批評を述べますが、さすがに神学生と感心します。漫然と説教を聞かず、自分ならどう語るだろうかと絶えず自問しながら聞いています。そして、なかなか的確かつ辛辣な批評をします。面白いと思うのは、他人の説教を批評する時は的確に急所をついてくる人も、自分が説教する段になると、左程でもないなあと思うことが多いことです。頭では分かっていても、いざ実践となると、思った通りにはいかないということでしょう。説教も訓練を要するのです。場数を踏むことも必要です。有名な英国の説教者スポルジョンは「説教者を作るのに20年かかる」と言いましたが、中島代作先生は「20年たったから説教が出来るとは言えない」と言われました。
牧師の説教の苦労が一番分かるのは神学生であり、次は教会学校の教師達ではないでしょうか。ルターは「説教に苦労せよ」と言いました。説教に苦労する中で、説教者、牧者が作られるということかもしれません。学生達のためにも祈って下さい。 (牧)

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