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2006年1月29日 (日)

「皆やっている」(1月29日)

   
 皆さんもご承知のとおり、最近はライブドアショックとか、建築やホテル業界の不祥事が相次いで発覚して、新聞、テレビその他のマスコミを賑わせている。ところが、不正を行ったと見られる責任者がその責任を問われても、まるで他人事のように、大したことではないと言わんばかりの応対が目立つ。これは、責任を問われることを怖れて、表面的にごまかしているのだろうか。それとも、そんなことは皆やっていることで、自分ばかりが責められるのは不当だと本心から思っているのだろうか。
 戦後間もなく、ルース・ベネディクト女史の「菊と刀」という本が出て、ベストセラーのように広く読まれたと聞く。欧米のキリスト教を土壌とした思想や倫理と比較して、それがない日本人の考え方の特徴をみごとに描き出した本として注目された。その本に指摘された、「罪の文化」(欧米)と「恥の文化」(日本)ということが盛んに言われた。神を知らない日本人は、人の目しか気にしないから、そこには「罪意識」は希薄で、他人と比べて恥ずかしいという「恥の意識」しか生まれないという。これは、日本人の意識の一面に過ぎないかも知れないが、重要な指摘だと思った。
 ところが、最近の風潮を見ていると、その「恥の意識」も希薄になってきたのではないか。それくらいのことは皆やっているという居直りは、罪意識はおろか、恥ずかしいとも思わないという感覚ではないか。まだ分別のない若者なら、分からないでもないが、年齢からも社会的な立場からも、相当な人物と思われる人が平気でそういうことを言う。
 世の中はどうなってきたのだろうか。善悪の判断も怪しくなってきたのか、学校でも教師たちはどのように子どもたちを指導するのか、家庭ではどうなのか。とにかく、根本的なところで日本はおかしくなってきたのではないかと心配している。こういう世の中で、少数者であるキリスト者の存在が貴重になってきていると思うがどうだろうか。

2006年1月22日 (日)

交わりを求めて(1月22日)

 新年を迎えたと思ったら、もう3週間が過ぎてしまった。なんと時間の経つのは早いことか。
 土曜日には「ぶどうの会」という若手婦人会の昼食会に招かれて、皆さんの新年を迎えた感想や抱負を聞くことが出来た。7、8名の楽しい交わりの一時で、本音で語り合うことが出来て幸いであった。「ぶどうの会」に限らず、教会の中にこのような親しい交わりがたくさん生まれて欲しいと願っている。 
 今年の私たちの教会の目標は「賛美と交わり」である。「交わり」は誰もが求めており、そして、多くの人がそれを求めては裏切られて失望し、時には大きな傷を負って、もう誰にも期待せず孤独に沈んでしまう人もある。どうしたら、真実な心と心の交わりが得られるのだろうか。
 「教会には、愛が足りない」と言って失望して去っていく人がある。しかし、愛は一方的に誰かから貰うものであろうか。愛は相互のものであり、ただ受けるだけものではないはずである。「愛が足りない」というのは、他人にばかり期待して、自分が「愛する」ことを忘れている人ではないだろうか。もちろん、教会に愛を求めてくること自体は間違いではない。「神は、愛である」からだ。教会に来て、聖書の話を聞いて、初めて神が私たちを愛して下さっていることがわかる。人に愛されるより前に、神が私たちを愛して下さることを知る。人間の愛もそれなりに美しいが、限界がある。だから他人に期待していたら、失望する。
 交わりもそうではないか。交わりという以上、相互のものである。誰かに期待するのではなく、自分から心を開いて語りかけ、交わりを求めていくときに、相手も心を開いて応えてくれる。ではどこで、本当の交わりが生まれるのか。それは、簡単には答えられない。なぜなら、本当の交わりは神の恵みの賜物であり、出来事として起こることだからだ。私も今日まで、そういう交わりに心温められ、励まされ、支えられてきた。交わりをどこか遠くに求めるのではなく、「私から始める」心がけが大切ではないか。

2006年1月14日 (土)

「夜回り先生」(1月15日)

     
 先週は成人の日を前にして、成人式を迎える若い兄弟姉妹の幸いな祝福式を持つことが出来て感謝だった。青年たちは可能性に満ちている。
 ところが、あるホームページから、「夜回り先生」と呼ばれる水谷修氏のことを知り感銘を受けたので、早速「夜回り先生」という本を買い求めた。夜間高校の教師である水谷氏は、「夜の街の子どもたち」のために深夜の渋谷界わいをパトロールして、そこで出会う若者たちに声をかけている。ドラッグや暴力団、風俗店などで死の淵に沈みかけている若者の命を救いたいというのが彼の願いである。この本にも、水谷氏が出会った何人かの若者のことがさらりと書かれているが、彼らを窮地から救い出すことは容易なことではない。まさに命がけである。ダメな場合もある。
 本の始めと終わりに、彼はこう書く。

「おれ、窃盗やってた」いいんだよ。「わたし、援助交際やってた」いいんだよ。「おれ、イジメやってた」いいんだよ。「わたし、シンナーやってた」いいんだよ。「おれ、暴走族やってた」いいんだよ。「わたし、リストカットやってた」いいんだよ。「おれ、カツアゲやってた」いいんだよ。「わたし、家に引きこもってた」いいんだよ。昨日までのことは、みんないいんだよ。
「おれ、死にたい」「わたし、死にたい」でも、それだけはダメだよ。まずは今日から、水谷と一緒に考えよう。
 私にとって、子供の過去なんてどうでもいい。今もどうでもいい。大事なのは、時間がかかってもいいから、誰かの助けを借りてもいいから、自分自身の意志と力で、幸せな未来を作っていくこと、そのためには、とにかく生きてくれさえすればいい。生きれば生きるほど、子どもたちは誰かと出会いながら、どんどん学んでくれるはずだから。

 水谷氏はどこまでも子どもたちの可能性を信じ、彼らを受け入れていく。そこに撤している。関心のある方に一読を勧めたい。        

2006年1月 7日 (土)

成人を祝う(1月8日)

 明日は成人の日ですが、この教会には、教会員、またはその家族で、今年成人になる人が7人もいることが分かりました。そこで、今日の礼拝で急きょ「成人祝福式」をさせていただきます。
 どんな年寄りにも若い日があったのです。私にも、今は遠い昔になりましたが、20歳の頃は、最も可能性に富む大事なときだったと思います。その頃読んだ本で一番心に残っているのは、内村鑑三とパスカルの「パンセ」です。以下に、パンセの中からいくつかの言葉を抜き書きしてみましょう。
 一番有名な言葉は、「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすには、全宇宙が武装するには及ばない。一吹きの蒸気、ひとしずくの水が、彼を殺すのに充分である。しかし、宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものよりもいっそう高貴である。なぜなら、彼は自分の死ぬことを、宇宙が彼を越えていることを知っているが、宇宙はそれらのことをなにも知らないからである。」

 悲惨と気ばらし
「みじめな我々を慰めてくれる唯一のものは、気ばらしである。とはいえ、これこそ我々のみじめさの最大のものだ。なぜなら、これは我々が自分を省みるのをことさらにさまたげ、我々を知らず知らず滅びに至らせるものだからである。気ばらしがなかったら、我々は退屈するであろうし、この退屈は我々をうながしてそこから逃れ出るさらに確かな方法を求めさせるであろう。だが、気ばらしは我々を楽しませ、知らず知らず死に至らせる。」

 信仰の手段
「信じるには三つの手段がある。理性と習慣と霊感とである。ただひとり道理を持つキリスト教は、霊感なしに信じるものを、自分の真の子とは認めない。これは理性と習慣とを除外するのではない。むしろ、その心を証拠に向かってひらき、習慣によってそれを確かめることは必要であるが、また謙虚に、霊感に身を委ねなければならない。霊感だけが真の有益な結果を引き起こすことができるからである。」     (以上、由木 康訳、白水社、1959年発行「パスカル冥想録」より)     

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