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2006年2月27日 (月)

「ただ一つのことを」(2月26日)

  第45回の箱根のケズィック・コンベンションが終わった。今回は、アメリカとイギリスから二人の講師が主講師として立てられたが、他に日本人講師としては札幌の久保木勁師と我が教会出身の本間義信師であった。海外の講師もさることながら、久保木、本間両師のメッセージは明晰で感銘を受けた。ここには、久保木師の説教の骨組みと聖句を紹介する。

説教題は「ただ一つのことを」
聖句は3つ、第一はヨハネ福音書9章25節、
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
ここから「ただ一つのことを知る」というメッセージ、これは聖歌451番に歌われているとおりで、久保木師はご自分の救いの証しをされた。
第二は、ルカ福音書10章42節、
「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
有名な、マルタ、マリヤの姉妹たちの話である。ここから、「ただ一つの必要」それは「マリアの座」であるとのお話しだった。
第三は、フィリピ3章13節、
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・」
このところから「ただ一つのことをする」。以上の三点は、英語で言えば動詞が変わるだけである。即ち、
Only once thing I know(need,do).
である。この三番目に、先に天に送られたご夫人の最後の闘病生活についても語られた。
久保木師は、北海道ケズィック・コンベンションの委員長で、ナザレン教会の牧師であるが、集会の後で個人的にお話しをすることが許された。私が札幌を離れる前の年に若くして札幌の教会に赴任され、以来40年以上、一つの教会で牧会に専念してこられた方である。私の母教会の前牧師、小林浩師とも親しく、いろいろ懐かしいお話もお聞きして感謝であった。久保木師と本間師の説教テープは、希望者にお貸ししたい。        

2006年2月18日 (土)

神のなされること(2月19日)

 短文に何を書こうかと考えていたら電話の呼び鈴が鳴った。久しぶりに札幌の従姉妹からだった。何事かと思ったら、今度の日曜礼拝で証しをすることになって、その原稿を書き上げたら、無性に私に電話をしたくなったのだという。彼女は私より5つほど年下で、母の弟の次女であるが、5人兄弟で受洗したのは彼女一人である。  
 なぜ、彼女が教会へ行くようになったのか。それは、同じ札幌に住み、親戚の中では一番付き合いが深かった我が家がクリスチャンホームであったことが大きかったであろう。彼女の曰く、「あなたのキリスト教との出会いは?」と訊かれたら、我が家に遊びに来たときのこと、私が小さなオルガンを弾きながら、近所の子どもたちに聖書の話をしており、そこで初めて聖書に触れたのがキリスト教との出会いであったという。
 それは初耳だったので驚いた。私は三年間ほど我が家で日曜学校の分校を開いていた。青年会の仲間も助けてくれたが、大体は自分一人で責任を持ってやっていた。しかし、だんだん子どもたちが来なくなって、最後は、私の甥と姪とその友達の3人くらいになってしまった。そうなるとつらくなって、何度止めようと思ったことか。でもせっかく始めたのだから、ギブアップするのも癪だった。意地で続けていたようなものである。
 しかし、後から振り返ってみると、あの分校のわずかの子どもたちを相手に日曜学校をやっていたことが、自分にとって一番大きな経験だったと気づいた。実はあのとき、牧師の真似事をしていたのだ。自分には手に余ることだったが、それによって自分が育てられた。その時の甥と姪も今はクリスチャンホームを作り、偶々遊びに来た従姉妹も、後に洗礼を受けてクリスチャンホームを作るなどとは夢にも思わなかった。すべて神さまがして下さったことだ。「神のなされることは、皆そのときにかなって美しい。」(伝道の書3・11、口語訳)アーメン  

2006年2月12日 (日)

献身の月(2月12日)

   
 毎年2月は東京聖書学校を覚えて祈り、また「学校デー献金」を献げる月です。特に、献身者が起こされることを祈っています。2月15日が願書の締め切り日ですが、躊躇している人が決断できるようにお祈り下さい。
 かく言う私も、献身の決断までずいぶん迷いました。最初に献身を考えたのは、母教会の牧師伊藤馨先生が突然召天されたときでした。東京から小原十三司先生が札幌まで葬儀に駆けつけて下さいました。その時の感銘深い葬儀は生涯忘れることができないでしょう。私が大学の3年の時でした。
その後、何度か献身について考えましたが、信仰と勇気が足らず、自分には無理だと思い、新天地を求めて仙台にきました。それが、この仙台青葉荘教会との出会い、特に中島代作先生との出会いの時となりました。当地での楽しい充実した数年間を深く感謝しています。
 献身のいきさつは、中島代作牧師夫人のヤス先生の突然のご召天でした。当地に来た翌年の2月14日朝のことでした。その日は伊藤馨先生の召天記念日に当たり、ちょうど日曜だったので、いつもより早く教会に来て祈っていました。すると突然、牧師館のドアが開き、副牧師であった中島豊先生が泣きながら飛び出してこられたのです。何事かと思ったら「今、母が天に召されました」の一言に、愕然としました。前日まで普段と変わらず、いつも通り会堂の掃除もしておられたのです。中島先生ご一家はもとより、教会にとってもどんなに大きな悲しみだったでしょう。その時も、東京から小原先生が奥様とともにお出でくださり、懇ろな葬儀を執り行ってくださいました。
 その時に、私は神さまにつかまってしまったのです。ヨナのように、仙台まで逃げてきたが、やはり神さまの手から逃れることはできませんでした。神さまの思いは私たちの思いを遙かに超えて高いということでしょう(イザヤ書55章)。
 あれから40年以上が経ちましたが、2月になるといつも献身の原点に引き戻される思いです。

2006年2月 5日 (日)

教会創立100周年を目指して(2月5日)

 私たちの教会は3年後の2009年に創立100周年を迎えます。私たちが赴任する数年前からすでに100周年記念事業委員会が組織されていました。そして、少しずつ記念誌の編集について協議がなされてきましたが、牧師の交替などもあってしばらく中断していました。このところ、ようやく委員会も再開されて、100周年記念事業への再起動というところでしょうか。
100周年というのは、教会はもとより、私たちにも初めての経験です。伝道者となって最初に迎えて頂いた東京の教会が、就任10年目に50周年を迎えました。この時を目標に、50周年記念誌発行と新会堂献堂を目指してみんなで祈り、主の大きな恵みによって実現を見ることができました。
 次に香港では、3年目に25周年を迎えました。この時には、日本とは違った困難もありましたが、同じく記念誌発行と新会堂獲得を目指し、これも順調に達成できたことは思いに優る主の恵みでした。 
 次は川口でしたが、50周年まで10年ありました。私たちもまだ若かったし、10年間、色々なことにチャレンジしてみました。しかし、今振り返ってみて、これが達成できたというほどのことができていないのを残念に思います。それはなぜだろうかと考えてみると、教会としても、牧師としても、ビジョンが明確でなかったと言うことでしょうか。いろいろ語り合い、試みても見ましたが、及びませんでした。50周年記念誌は、編集委員会の努力によって味のあるものができたことを感謝します。しかし、「ただ過去のことを記録するだけではなく、将来への展望が拓かれるような記念誌を」と語り合ったのですが、私自身には今ひとつという思いがあります。川口で不完全燃焼の思いが残ったとするならば、その点であったと思います。
 さて、これから仙台で100周年を迎えます。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」というイザヤのみ言葉を信じて、祈っていきたいと願っています。

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