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2006年3月28日 (火)

一族の救いを目指せ(3月28日)

 先週は教会員が召されたり、教会の関係者の葬儀を頼まれたり、多忙な日が続きました。教会員の召天では、離れて住む子どもたちに連絡が十分でなかったために、本人が望むキリスト教式の葬儀が出来なかったことが心残りです。キリスト教はこの国ではまだまだマイノリティであることを痛感しました。
 教会関係者で天に召されたH姉は、私たちの教会の戦前の信者であった家庭に育ち、私もお名前は折々に聞いておりましたが、お会いしたことはありませんでした。ところが、この度の葬儀に集まった一族の方々に接し、その一族の結束の固いのに驚き、かつ敬服しました。その中には私たちの大先輩である森五郎先生の子どもたちも連なるなど、教会との関係の深さもだんだん分かってきました。これらの方々が今日教会につながっていたら、大きな力になっていたことでしょう。
 以前に、満丸茂先生が、一族の救いということを強調しておられましたが、日本の場合、それが特に大事であると改めて思いました。今日までのキリスト教は個人主義的な面が強く、一家で一人だけクリスチャンというケースが多いのが現状ですが、特に地方の伝道は、まず一家に、そして一族の中に福音が浸透していくことを目指すことが大事ではなかろうかと思います。
 我が家においても、父母が信仰に導かれた結果、私たちも主の救いに与り、その伴侶や孫たち等、救われた者たちを数えていくと20数名になりますが、これは多い数ではありません。しかし、今日はさらに少子化傾向が進み、昔のように薯ずる式に多くの人が救われるという可能性が小さくなっています。もし子どもたちが10人もいたら、その子どもたちや孫たちが信仰を受け継いでいくと、その結果は驚くべき結実を見ることになります。
 この度の葬儀に参列された親族の多いことに驚きましたが、これらの方々がクリスチャンホームを築いていったら本当に素晴らしいと思い、祈らされました。
「わたしとわたしの家は主に仕えます」と明確に宣言したヨシュアの信仰の尊さを改めて深く思う1週間でした。

2006年3月20日 (月)

二人の先輩教師(3月19日)

   
 先週はお二人の先輩教師をお訪ねした。森野善右衛門先生と小林喜成先生である。森野先生は東北学院に30年間働かれ、現在は関東教区の巡回教師であるが、隔月に仙台において実践神学の読書会を開いておられる。前からご案内を受けていたが、ようやく出席が許された。先生のマンションで開かれたが、リビングは満員で信徒の方も何人か見えた。今年は、先生の近著である「告白と抵抗」―ボンヘッファーの十字架の神学―を読んでいこうと決まった。ボンヘッファーは神学生の頃から先生の第一関心事で、何冊かの本も書いておられる。私もボンヘッファーには以前から関心を抱いていたので、先生に直接お聞きできるのはありがたい。
 先生に最初にお会いしたのは40年も前になるが、ある時私たちの教会の礼拝に出席された。その時、中島代作先生がストレートにキリストの再臨を語られたのを不思議に覚えている。そのホーリネス教会ならではのメッセージを若い神学教師であった森野先生がどのように受け止められたか興味があった。そんなことは、先生はもちろんご記憶にないだろう。
 小林先生は昨年のCSとの合同クリスマス礼拝に奥様とご一緒に出席してくださった。現在はホームに入られたが、ご自宅に多くの蔵書があり、それを東京聖書学校に寄贈して下さるという。その本を見せて頂いたが、大変な量であり、貴重なものである。これだけの本を購入して、しかもそれをずっと保管している牧師はほとんどないだろう。普通の家ではとても納まる量ではない。トラックで運んではと言われたが、それも大変なので、学校のワゴン車で運べるだけということになろう。
 先生は父上の時からホーリネス教会と深い関係にあり、昔から私たちの群に好意的で、私が補教師試験のため東北教区の面接を受けたとき、先生は教区の書記であった。あのときも、いろいろと好意的なアドバイスをしてくださったのをよく覚えている。40年も前からこれらの先生たちにはお世話になっている。 

2006年3月11日 (土)

卒業式を終えて(3月12日)

東京聖書学校の卒業式が8日に無事終わった。今年は五名の兄姉が卒業した。どこの学校でも卒業式には涙がつきものだろうが、聖書学校の場合は一味違う涙がある。今年の卒業生の平均年齢は五十歳である。一家の家長や主婦が献身してくるのである。家族の協力や、母教会の支援がなければ、とうてい四年間の学びを全うすることは難しい。それらのことを思えば涙、涙になるのも無理はない。
 旧約聖書を見ると、神のために聖別されたレビ人は五十歳が定年であった(民数記8・25)。旧約時代ならばとうに定年に達してから奉仕に向かおうとしているのである。
 しかしモーセのことを考えれば、80歳から出エジプトの指導者に立てられた。自分にはできないとひたすら固辞するのに、ついに神に説得されて大きな責任を担わせられたのである。彼は120歳までの40年間、壮者を凌ぐ働きを続けた。必要ならば神はそのような力を与えてくださる。自分で簡単にできないと決めてしまうのは早計である。
 しかし、教会にも定年制を定めているところがある。これはどのように考えるべきだろうか。
 レビ人に定年制があったのは、働き人が十分にいたから、若い人に道を譲るという意味があったのではないか。しかし、教会の現状はどうか。「収穫は多いが働き人が少ない」という状態だ。無牧の教会も多い。但し、無牧の教会にもそれぞれ事情があって、牧師を招きたくても経済的に困難なところも沢山ある。年金を受けている牧師を招きたいという教会もある。
 だから「適材適所」ということがいよいよ大事になってきている。私たちの教団では各個教会が牧師を招聘するのが原則だから、第三者がとやかく言うことは憚られるが、私たちのホーリネスの群は教団の枠の中で委員会が人事の斡旋をしている。これはうまく機能すれば「適材適所」を実現しやすい利点があると考えられるが、如何であろうか。

2006年3月 4日 (土)

S君の来訪(3月5日)

 きょうは全く個人的な昔話をお許し頂こう。
 珍しい友人がひょっこり訪ねてきた。「自分も老い先短くなったので元気なうちに会いたいと思って」とのことだったが、老い先短いといっても高校時代の同期のS君である。もう半世紀程の付き合いになる。特に忘れられないのは高校3年のことである。その頃、我々の高校では生徒会が危機に瀕した。生徒会長のなり手がなかったのである。やむなく一時期、代行委員会制をとり、クラスの代表委員が集まって生徒会の代行をしていた。私もその一人だった。しかしこれではまずい、誰かが会長になるべきではないかということになって、会長候補に担ぎ上げられたのがS君だった。彼も初めは躊躇していたが、私に「君が副会長をやってくれたら」という条件つきで会長選挙に立ってくれた。選挙といっても候補者は3年生から彼一人だ。もう一人下級生で立候補したのがいたように記憶するが、結局彼が当選して、卒業まで一年間会長を務めてくれた。約束した手前、私も副会長をやらざるを得なくなったが、いわゆる受験校において高校三年の一年間は、文化祭などいろいろ学校の行事に追われた。毎日、放課後には狭い生徒会の部屋で、わいわいがやがやと生徒会の運営など討論し合ったのが思い出される。学校に泊まり込んで、文化祭の準備に打ち込んだこともあった。
 大学に進んでからは、別々の進路になったので会うことも少なくなったが、40年前に私が仙台に来たとき、ここまで訪ねて来てくれて、一緒に松島を見に行ったことも懐かしい。
 彼は市役所に勤めて、長い間福祉関係の仕事に携わっていたが、数年前にある老人ホームの施設長になった。そのホームにたまたま私の長姉夫婦がお世話になったのである。苗字が違うので私の姉とは気づかなかったようだが、私が姉に出した手紙を偶然手にして、ハッとしたそうである。これも奇縁であった。彼は定年後も近所の老人ホームの責任を負っているが、互いにもう少し頑張ろうと語り合った。

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