聖霊が降るときに(5月27日)
今年もペンテコステを迎えました。教会を生かす聖霊よ、我らを満たし、支配して下さいと祈ろう。
ペンテコステの主日を迎え、祈る弟子達に聖霊が降って彼らが新しくされ、ペトロの説教を聞いて多くの人々が悔い改めて主を信じ、その日に三千人ほどが洗礼を受けてエルサレム教会が誕生したということを新たに思い起こしている(使徒言行録2章)。これは遠い昔の夢物語に過ぎないのであろうか。
主イエスの文字通り命を賭けた伝道も、三年間心血を注いで弟子達を育てようとした訓練も、もし聖霊の降臨がなければ実を結ばなかったと言える。使徒言行録に見る教会は、聖霊が生き生きと働く教会の本来の姿であり、以後二千年の教会の歴史は、そのような聖霊の働きのリバイバルを祈りつつ、浮きつ沈みつして今日に至ったと言える。
ペンテコステの日に何が起こったのか。まず聖霊が注がれて弟子達が変えられた。それはペテロにおいて顕著だが、ペトロだけではなく、一人ひとりが変えられた。聖霊は十把一絡げでなく個人個人に働いて、一人ひとりを主の器に変えて下さる。
今、聖書学校で学生たちと読んでいる「新約のきよめ」(トマス・クック)に、ムーディーの証が出ている。
「私は新しい油注ぎを得たいと、どれ程願ったことでしょう。私は、数名に毎週金曜日の4時に来て、一緒に祈ってくれるようにお願いしました。ああ、神がこの空虚な器を満たして下さるように、私は何と哀れに祈ったことでしょう。…そのとき、私はあたかも不思議な大きな力が私にのしかかってくるように感じました。私はホテルに戻ると、自分の部屋に入り『おお、わが神よ、あなたの手を止めて下さい』と、神の前に泣いて叫びました。神は、私が耐えられないほどに思われる満たしを私に与えて下さったからです。……」
靴屋の職人だった彼が、驚くべき主の器に変えられたのは、この聖霊の注ぎが与えられたからである。この原則は昔も今も変わらないと信じる。「ただ、聖霊が降るとき」という約束が新しく信じられ、祈りが始まるときに、新しい神の業がなされることを信じる。「主よ、我らにリバイバルを」と祈ろう!

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