「聖歌」「讃美歌」について
27日の週報短文は、公開するのを遠慮して書きかえてみたが、これも誰かから「意義あり」と言われそうな文章になってしまった。一つの私見としてお許しを願うことにしよう。
先日、東京聖書学校に和田健治師が訪ねて見えた。同師は聖歌の指導者として著名な方だが、お会いするのは久しぶりである。私たちが現在用いている「聖歌」は、中田羽後師によって編纂されたが、それ以前には「リバイバル聖歌」という小さな歌集を用いていた。羽後師は生涯をかけて宗教音楽を研究し、「聖歌」の発刊に努められた。これは今日まで「讃美歌」と同じくらいに日本の教会で広く愛用されてきた。
ところが、2001年に「新聖歌」が発刊され、これまでの「聖歌」は廃刊されることになった。今日は、書店で求めることは出来ない。ところが、和田健治師は「聖歌」の重要性を以前から主張され、御自分が主催する聖歌の友社から新しい「聖歌」(総合版)を出版された。従って、今日は「新聖歌」を用いる教会があり、また、従来の「聖歌」または新しい「聖歌(総合版)」を用いる教会があり、ちょっとややこしいことになってきた。聖歌ばかりでなく、讃美歌も讃美歌ⅠとⅡに加えて、新しく「讃美歌21」が出版されたので、教会はどの讃美歌を用いるか迷うところがあり、教会の讃美歌、聖歌は混乱しているといっても過言ではない。今は過渡期だからと簡単に片づけられない点がある。
聖書の翻訳もいろいろあるのだから、讃美歌、聖歌も種々あってもよいという意見もあるが、讃美歌、聖歌は皆で声を合わせて歌うものだから、静かに目を通す聖書とはわけが違うのだ。
和田師は、讃美歌、聖歌の混乱で、教会が分裂することを危惧しておられた。しかし、「新聖歌」に対しては、どうしても言わなければならないお考え(批判)を持って居られる。しかし、なぜ中田羽後師からも「後をよろしく」と言われたという和田健治師が「新聖歌」の編纂委員に入らなかったのであろうか。編纂委員の方にもお訊きしてみたいものだ。それが今日の混乱の原因の一つになっている。事情を知らない者が、外野席からこんな事を言うのは軽率かも知れないが、我々日本人の島国根性というか、考えの狭さが残念でならない。

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