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2008年3月30日 (日)

出会い

 週報短文を忘れていて、30分でキンロー先生の一文を借りて書き上げたたので、ここには月報の巻頭言を載せることにします。
  
 春は別れと出会いの季節です。今春も若い兄姉たちがこの地を離れて新しい地に旅立っていきました。その地には新しい出会いが待っていることでしょう。私たちもまた、ここで新しい友を迎えることを期待しています。
 「人生は出会いで決まる」という言葉がありますが、実際、誰と出会うか、何に出会うかによって私たちの人生が大きく左右されることは間違いありません。皆さんの人生における最大の出会いは何だったでしょうか。
 ヨハネ一章には主イエスに出会った最初の弟子達のことが興味深く記されています。彼らにとってそれは決定的な出会いでした。私たちはどうでしょうか。主イエスとの出会いが生涯を決めたと言い得るでしょうか。私たちクリスチャンホームに育った者は、主イエスに出会ったという意識が持ちにくいのですが、多くの場合、まず誰かとの出会いがあって、それが契機となり主イエスとの出会いに至るのが普通であると思います。自分で聖書を読んで主に出会ったという人は少ないでしょう。

 「主イエスとの出会い」という場合、それは深められていくものではないでしょうか。例えば、み言葉との出会いと言うことがあります。東京聖書学校の入学試験の面接では、必ず召命感が問われますが、それはみ言葉を握っているか否かが鍵になるでしょう。そのみ言葉の背後に、実は生ける主ご自身がおられるのです。それはみ言葉ばかりではなく、人や出来事との出会いにおいても同様です。背後におられる主ご自身に気づくかどうかということです。いつまでも人を見ているのではなく、その背後に生きて働かれる主イエスご自身を見ることができるようになったとき、それは自立した信仰と言うことが出来るでしょう。
 特に若いときならば、本との出会いが大きいはずです。今、ホーリネス誌では「一冊の本」という連載が続いていますが、興味深く読んでいます。私が原稿を依頼されたら何を選ぼうか、パスカルにするか内村鑑三にするか、とにかくその本を手にしなかったら、自分の人生はかなり違っていたという本があるはずです。皆さんの人生の様々な出会いをお聞きしてみたいと思います。

2008年3月22日 (土)

東京聖書学校の寮生活(3月23日)

  4月から東京聖書学校で賄いをしてくださる方を求めているのですが、もう1週間しかないのに未だに見つかりません。この短文をみて、応募してくださる方、心当たりを紹介してくださる方が現れることを期待します。

 学生の食事は朝昼夜と三食あるが、昼は弁当を取り、夜は学生が交替で作る。従って賄いさんには朝食のみの準備となるが、朝は早い。7時15分から朝食だが、準備は5時半頃から始まる。今は通いで準備してくださっている方があるが、まだ暗いうちに家を出るのだろう。
 昨春までの4年間は、学校に入学した兄弟の奥様が、「主人が献身して入学したのですから、私もそのつもりで賄いをいたしましょう」と申し出てくださって、兄弟が卒業するまで4年間、学生の朝食を準備してくださった。ところが、姉妹は学ぶことに大変意欲的で、殆ど全科聴講生になり、夫君も顔負けするほど、賄いよりも学びに一生懸命だった。今は、夫君と共に遣わされた教会に仕えておられる。
 賄いさんは学校の職員になるので、給与はあるが、低い。それだけで生活が出来るほどではない。しかし、部屋は寮に準備されているから、例えば幾らかでも年金が下りる人ならば、十分生活は出来るであろう。そして、学習意欲があるなら、学生と同じように勉強することも出来る。
 百聞一見に如かず、一ヶ月でも二ヶ月でも学生と共に生活してみたら、学校生活が良く分かるであろう。そして、学校にも献身者にも親しみが増して、神学生と戦友の意識が生まれるであろう。私も昔、聖書学校の寮に半年間、修養生として置いてもらった。あの経験がなければ、果たして伝道者が務まったかどうか。私のようにCコースで補教師になった人は、短期間でも寮生活をして訓練を受けることは大きなプラスになると信じる。賄いから話が発展したが、拙文を読んでくださった皆さんにも考えて頂きたいし、祈って頂きたい。

2008年3月15日 (土)

歴史の教訓に学ぶ(3月16日)

  今年も受難週を迎え、来週はいよいよイースターですが、私は教会の暦よりも年度末の仕事に追われています。本来の姿ではないですが、やむを得ないと思っています。というのは、今年はイースターが早く3月中に来ることと、4月の冒頭にホ群の年会があり、それまでにやらなければならないことが重なったためです。
 特に今週は、ホ群の歴史編集に追われました。月曜から学校に一泊して4人の委員で膝つき合わせて作業をしましたが、委員の間でも必ずしも意見が一致しません。戦前の部分は、すでにまとまりました。問題は戦後の歴史ですが、特にいわゆる教団紛争が始まってから、ホ群の分裂に至る約20年間が一番大変です。群の分裂がどんなに大きな痛手であったかは、今になってもその傷が癒えていないことでも分かります。
「神さま、どうしてですか」「どうしてこんなことになるのですか」と、どんなに涙をもって祈られたでしょうか。
しかし、どんなに祈っても知恵を絞って協議をしても、どうしても意見が一つにまとまらず、どんどん分裂の方向に進んでしまったことが、今振り返ると痛いほど分かります。その時は、皆夢中ですから気づかなかったことも多かったでしょうが、今冷静に考えればもっと別な道があったのではと皆思うでしょう。
 ホーリネス教会は、分裂を重ねてきたと言われます。宗教改革も分裂でしたから、分裂がみな悪いとは言いませんが、分裂による痛手を思うときに、極力避けなければならないことであることは間違いありません。人間の悲しさは、自分が正しいと信じることを主張しているうちに、サタンに足をすくわれてしまうことです。サタンは内輪もめが大好きだから、教会をそこに追い込んだらしめたものだとほくそ笑んでいるのです。パウロは「サタンのやり口は心得ている」と言っていますが、しかし、そのパウロもサタンの誘惑からいつも守られていたわけではありません。ともあれ、歴史の教訓から学ばなければならないと改めて思わされています。   

2008年3月 9日 (日)

新年度に向けて(3月9日)

 これも私たちの教会の内部の問題なのですが、何かの参考になるかもしれないと期待して載せることにします。 
  
 新年度の教会総会に向けて準備を進めていますが、一年を振り返って今年度一番大きな事は、森田聖子先生を迎えたことでしょう。教職三人体制でチームを組んで進むことになりました。まず半年は助走のようなもので、これからが本番と思っています。
 次に、創立100周年を来年に控えて、今年はまず記念誌の編集に精力的に取り組まねばなりません。委員会の作業も着実に進んでいますが、来年の出版の目処が立ってきたように思います。皆さんの証も、出来るだけ早くまとめてくださるようにお願いいたします。

 建物・設備関係ですが、現在話が出ているのは礼拝堂の冷房設備です。天井が高く広いので、全体を冷やすのは簡単ではありませんが、例えば礼拝堂の前方または後方だけを冷やすということも考えられるでしょう。クーラーは嫌いだとか体質に合わないという方もいますので、かえってその方が良いかも知れません。一部だけを冷やすことが出来るかどうか、専門家によく訊かねばなりませんが、皆さんのご意見、ご希望をお聞かせください。
 100周年記念事業の一つとしてのエレベーター設置はすでに完成して役立っていますが、同時に協議された和室の改造(応接室と伝道師の執務室に分割する)は役員会で否決され、そのままになっています。取り敢えず和室には籐椅子を入れて、応接室にも兼用していますが、何か良いアイデアがあればこの際改修しても良いのではないでしょうか。皆さんのご意見を期待します。

 教会学校と青年会は目下の最大の課題と言ってよいでしょう。もっと子どもたちと教師が欲しい、そして、青年会が自主的に活動して欲しいということは、元青年、元教会学校教師たちの共通の願いです。新年度に期待しましょう。         

2008年3月 6日 (木)

伝道者たる者

 短文を更新していないことに気づきました。今週の週報短文は、私たちの教会内部の問題ですので、違うことをちょっと書かせて頂きます。

 聖書学校の卒業式が終わりました。卒業式は学校の最大イベントと言ってよいでしょう。今年も感激の卒業式でした。聖書学校の使命は、伝道者を教会に送り出すことです。卒業にまつわるいろいろな話が出ましたが、ある人が「オアシス運動」ということを言ったそうです。伝道者は、オアシス運動が出来る人でなければならない、というのです。私は、オアシスと言うから、てっきり人を慰め、休ませ、潤いを与える人のことかと思ったのですが、そうではなかったのです。オは、お早うございます、アは、ありがとう、シは失礼します(だったと思う)、スは済みません、と、誰にでも言える人でなければならない、ということでした。これが言える人を教会に派遣してくださいという、信徒の切なる願いであるというのです。私は、唖然としました。学校を卒業して伝道者になって来る人に、そういうことが言えない人がある、というのです。
 これはまさに信仰以前の問題です。社会人としての常識の問題です。しかし、そういう初歩的常識をわきまえない人が学校から遣わされてくるという現実がある、それに対する強い抗議と受け止めました。それは聖書学校に来る前に、当然家庭や学校で、身につけてくるべき人としてのマナーでしょう。それが身につかないままで学校に来て、そのまま卒業していくということのようです。驚きました。私たちも、注意しなければならないことです。ありがとうも言えない人が、ギリシャ語やヘブル語を勉強するというのも、考えてみると滑稽なことですね。これは聖書学校だけではなく、世の中全体がおかしくなっているということですが、教会やクリスチャンホームも例外ではないということを考えると、これは安閑としておれないと思います。如何でしょうか。

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