生かされて生きる
26日の短文は教会員の個人のことですので、月報の巻頭言にいたします。
「人の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても…」という詩編の言葉からすれば、K兄は少し短い一生でした。しかし、主イエスの三十余年の地上の生涯と比較すれば、十分生きたとも言えるでしょう。使徒パウロは獄中で殉教の死を覚悟しながら、「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました」(テモテ二 4・7)と愛する弟子テモテに書き送っています。時代は違いますが、私たちもそうありたいと願わされます。
ここで「決められた道」とパウロが言っているのはどういう意味でしょうか。他の訳では「はせばを走り終えた」とあります。マラソンで言えば、42、195キロの道のりを途中で放棄せず走り抜いたということでしょう。私たちも時に人生に疲れてしまい「神さま、もういいです。早く天国に召してください」と言いたくなるときがる時があります。旧約を代表する預言者の一人エリヤでさえ、毒婦イゼベルに命を狙われた時、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさるものではありません」(列王上19・4)と弱音を吐いています。しかし神は、エリヤになお果たすべき務めを残しておられたことが、その後を読むと分かります。わたしの母教会の恩師の一人、伊藤須磨先生は、ご主人の伊藤馨師亡き後、母教会の牧師として九十歳を超えてなお現役でした。先生も、できたら引退してゆっくり休みたかったでしょう。しかし、それが許されない情況にあったと思います。先生は口癖のように「人は生かされている限り、使命がある」と言っておられました。それは御自分に言い聞かせていた言葉でもあったでしょうか。
そうです。人は勝手に生きているのではなく、神によって生かされているのです。そして、一羽の雀さえも、神の許しがなければ地に落ちることはないのです。その神さまを信頼して、思い悩みを主に委ね、「もう良いから、私の所に来なさい」という主の召しがあるまで、地上のはせばを走り抜きましょう。


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