2009年6月29日 (月)

ベー・チェチョルさんの歌声(6月28日)

 22日に福音主義牧師会が開かれ、20余名の牧師たちが集まった。その日、東京から「いのちのことば社」の役員と一緒に音楽プロデューサーのY氏が見えて、ベー・チェチョルさんのことを紹介された。ベーさんは韓国人で、百年に一人と言われたテノール歌手の逸材だが、2005年に甲状腺癌と判明、手術の結果、彼にとって命とも言うべき大切な声を失った。彼の歌声に感動し惚れ込んでいたY氏は、ベーさんに日本で声帯膜治療の第一人者、京都大学名誉教授のI医師を紹介し、手術を勧めた。ベーさんも決心して手術に臨んだ。それは3年前の春であった。
 手術の結果、日常会話には差し障りないまでになったが、あの希代の美声が戻るまでには至らなかった。最初の手術で、片方の横隔膜が麻痺してしまったからだ。手術後も、ベーさんの懸命のリハビリが続いている。ベーさんの再起への闘いを聞いて、彼を知る人々の間に支援の輪が拡がり、2007年の年末にはNHKドキュメンタリー特集「あの歌声を再び~テノール歌手ベー・チェチョルの挑戦~」が放映され、反響を呼んだ。この度、W氏よりそのDVDを頂き、早速観てみたが、まさに感動のドキュメンタリーだ。彼がI教授の手術を受ける場面も生々しく放映されるが、手術台の上でI教授に「何か歌ってみて下さい」と勧められて、ベーさんは「輝く日を仰ぐ時」を歌った。それは子どもの時から教会で慣れ親しんだ聖歌だった。
 その後も前述の通りドイツで奥さんと共に懸命のリハビリを続けているが、彼の歌声を電話で聞いたY氏は、以前のベーさんとは違う深い感動を受け、彼の舞台復帰を強く願うことになる。そして、一般の聴衆の前ではなく、彼を支援する人々の前で、歌う場面を設定した。彼の歌は菅英三子姉が礼拝でもコンサートでも歌ったマロットの「主の祈り」だった。まさに彼の祈りそのものだったと思う。まだ十分には美声は回復していないが、今年の10月15日には仙台文化文化センターでベーさんのコンサートが予定されている。

2009年6月22日 (月)

一歩を踏み出す(6月21日)

  きょうは菅英三子姉を迎えて楽しみにしていた百周年記念コンサートが開かれる。コンサートには、大勢の方がお出でくださるであろう。地域に開かれた教会として皆さんを心から歓迎したいと思う。
 これからまた、十月の記念礼拝・式典に向けて、特に今夏は記念誌発行のために集中的に準備を進めていくことになる。百周年、百周年と思って記念誌編集や行事を進めてきて、フト思わされたことは、皆が心を合わせて一つのことに取り組む中で、神は私たちに新しい業や気づきを与えてくださるということである。二月の初めに記念誌に載せる座談会を開いたが、それは過去を振り返りつつ未来に向かって新しい展望が開かれるようにという意図があった。しかし、座談会参加者一同にとってそれは決して簡単なテーマではなかったと思う。五月には藤本満師を迎えてウェスレーについての講演をお聴きした。その中にもこの教会への貴重な示唆があった。このようにして手探りではあるが私たちが祈りつつ百周年の歩みを進める中で、神は細いみ声をもって私たちに語り続けておられると気づいた。

 藤本師の講演はウェスレーのアルダスゲートの回心から始められたが、これはメソジスト運動の原点とみなされている。しかし、アルダスゲートの回心から直ちにメソジスト・リバイバルが始まったのではない。アルダスゲートの回心後も、彼はなお内省を重ねて思い悩んでいた。ところが、思いがけない転機が訪れた。それは、やむを得ない事情に迫られてオックスフォードを去り、炭鉱の町ブリストルに行き、そこで強いられて野外伝道を始めた。ここから驚くべきリバイバルが始まったのだ。
 この事実は、私たちにも一つのヒントを与える。それは私たちが躊躇する思いを振り切って一歩を踏み出す時、あのヨルダン川の水がせき止められたように(ヨシュア記三章)、私たちの思いを超えて神が業を進めて下さるということである。大事なことは、信仰を持って一歩を踏み出すことである。

2009年6月15日 (月)

百周年記念誌について(6月14日)

 百周年記念誌編集は大詰めに来ました。先日編集長から原稿ひと揃いを預かり、目を通してみて、今度の記念誌の特色が分かりました。目次を見ると、まず祝辞は教区議長とホ群委員長のお二人だけ。当初、中島豊師からも頂く予定でしたが、自分はあちこちに書いているし、教会に対して客観的に祝辞を書く立場にはないと辞意を表明され、委員会もそれを受け止めました。確かに全体を通読してみて、先生から祝辞を頂くのは適当ではないと思いました。殆どのページに中島代作・豊両牧師の息づかいが感じられるからです。それがこの記念誌の第一の特色と言ってよいでしょう。
 祝辞に続く説教集では、中島代作師以降六人の教職の説教が一編ずつ載ります。次に教会の歴史の部では、八十五周年誌の歴史の部を圧縮し、それ以後のところを若干つけ加えた程度です。この中で特に弾圧の歴史には経験者の証言を加えて十数頁を取っています。これも一つの特色と言えるでしょうか。
 次に、現在の教会を紹介するために、教会学校から始めて地区会、例会、委員会と続きます。この部分は、私たち教会員も教会全体が分かっていないので大変役立ちますが、教会外の人に対しては教会の中心と言うべき礼拝、祈祷会の紹介がないのはどうだろうかと感じました。

 さて、この記念誌の最大の目玉は、皆さんの自己紹介を兼ねた証し集です。短い文ですが、それぞれの個性が出て読み応えがあります。ただ全員の証しはなく、半数ちょっとでしょうか。さらに各自の「愛誦聖句、愛唱讃美歌・聖歌」は一覧表にまとめられています。そして、過日の座談会記録が続きます。最後は資料集で、略年表もまとめられています。写真集はカラーと白黒とに分かれるでしょうが、どれくらい載せられるか、印刷費とも相談してということになるでしょう。間もなく印刷所に原稿を入れることになります。完成を待ちましょう。

2009年6月 6日 (土)

「日ユ同祖論」(6月7日)

 今年はプロテスタント宣教150年の記念の年に当たるが、最近「日本キリスト教宣教史」(中村敏著)が出版された。この本の第一部はザビエル前史であり、景教(ネストリウス派)と日本との関係まで遡って記している。前史の中に「日本人とユダヤ人の同祖論」というのがあり、日本人の中にユダヤ人の血が流れているという主張が取り上げられている。この主張に関しては、かなり多くの人が同調しており、最近でも20冊以上の本が出版されていることを知った。これに関して我らの先輩、中田重治が「聖書より見たる日本」を出版して物議を醸したのは有名だが、より冷静な学問的主張もあるらしい。しかし、著者は日ユ道祖論に対して「大胆な仮説や推論に基づくところが多く、もっと厳密な歴史的検証が必要だ」と結論づけている。同時に「宣教的動機も含めて、その主張には日本キリスト教史研究の上で無視できないものもあり、今後の一層の研究の進展と建設的対話が望まれる」と結んでいる。

 その日ユ道祖論に立って琉球伝道に来たのがベッテルハイムである。彼はハンガリー生まれのユダヤ人であり、医学を修めたが、イギリス人女性と結婚してイギリス国籍を取得した。そして「英国海軍琉球伝道会」の最初の宣教師として1846年家族と共に那覇に上陸した。当時の琉球王国は薩摩藩の支配下にあり、キリスト教は本土と同じく禁教であった。しかし、彼は激しい迫害に屈することなく、8年余り琉球に滞在して宣教活動を行い、改宗者を生み出した。これが日本における最初のプロテスタント宣教であり、横浜や長崎の開港を待って宣教師たちが来日し、宣教を開始した1859年に先立つ13年前のことであった。そうした彼の日本宣教の情熱を支えたのが、前述の日ユ同祖論であった。彼は、琉球に生活して琉球の人々を実際に知るにつれて、いよいよその思いは強くなったという。なお、プロテスタント宣教150年と言う時、ベッテルハイムの琉球伝道は数えられていない。     

2009年6月 1日 (月)

藤本満師の講演から(5月31日)

  藤本満師の礼拝説教と講演がCDに録音されたので、講演をもう一度聴き直した。二度聴いてさらによく分かった。聞き流してしまうのはもったいない内容なので、委員会で相談して何とか活字に残したいと思っている。
 講演を聴いて心に残った二、三のことを以下に記したい。

 今私たちは百周年記念誌を編集しているが、教会の記念誌にもその教会の伝統によって特色が出る。例えば改革長老系の教会では歴史の出来事をできるだけ取り上げて記し、メソジスト系の記念誌では人物に重きを置き、証しが記されるという。確かにそうだ。私たちが発行した記念誌はみな、証しにかなりのページを割いた。青葉荘教会の八十五年誌もそうだが、今度の記念誌には各牧師のプロフィールまで別枠で出る予定である。まさに人物に重きを置いた記念誌になりそうだ。教会の歴史は、その教会を担った人々の生き様だというのがウェスレーの考えだという。だが藤本師は、過去の人物よりも、今を生きる人々に集中する(べし)と言われた。その意味で、教会員の証しが中心だと言ってもよい。

 また講演の中で小グループのことに触れて、ウェスレーはメソジスト会の中に組会等の沢山の小グループを作り、それを管理する卓越した能力を備えていたという。それらの小グループでは、信徒指導者が信徒を牧会する。信徒が信徒を牧会するのがメソジストの勝れた特徴だと言われた。これは私たちの教会の特色でもあると改めて思った。こころの友委員会はもちろん、祈祷会や地区会、各例会にもその特色が現れている。むろん未だ十分ではないが、今後もその特色を伸ばしていきたい。

 さらに教会の交わりはラテン語でコミュニオ(英語のコミュニケーション)と言い「融通する」という意味があるという。一人一人に与えられている賜物や恵みを互いに融通するというのだ。金を融通するより、はるかに豊かな交わりが生まれることは間違いない。今年の教会標語(ロマ書12:5)にぴたりであった。 

2009年5月12日 (火)

藤本満師を迎える(5月10日)

 個人のお名前を出して恐縮ですが、教界では著名な方なのでお許しを戴きます。
    
 百周年記念行事の第一弾、イースター・フェスティバルが終わって、ほっと一息ついた感じですが、それはあくまでも第一弾であって、今年は特別集会やコンサートがずっと続きます。特に、5月24日に藤本満師を迎えての特別伝道礼拝と記念講演会は大事な集会です。

 百周年の記念行事について思い巡らした時、最初に頭に浮かんだのが藤本満師でした。百周年には、ぜひ藤本師を迎えようと心に決め、では、何をお願いしようかと考えて「講演会」が最適だと思いました。それは次のような理由です。
 藤本師に初めて親しいお交わりを頂いたのは1993年秋のホ群の教職セミナーの時でした。先生はまだ30代の若さでしたがその講演は素晴らしく、深い印象を与えられました。その後、ウェスレー・メソジスト学会が立ち上げられ、その当初から先生は書記として中心的に奉仕されました。毎年開かれる学会の研究会や総会では、深い洞察と明晰な発言で会をリードしてこられました。また、聖化大会や更新伝道会(旧メソジスト教会のグループ)でも説教や講演を伺いましたが、いつも充実したお話でした。あちこちから聖会講師として招かれ、今年はホ群の近畿夏期聖会からも招かれているようです。近い将来、東北夏期聖会にもお出でいただきたいと願っています。

 先生はアメリカで7~8年、特にウェスレーについて学ばれ、若くして「ウェスレーの神学」という立派な本を出版されました。これは私が東京聖書学校の教科書として愛用し、もう20年近くになるでしょうか。ですから私ばかりでなく、聖書学校の卒業生は皆、先生のお世話になっているわけです。母校のイムマヌエル聖宣神学院ではもちろん、青山学院でも学生たちを教えておられます。

 私たちの教会が宣教2世紀に向かうこの大事な時、神がどのようなビジョンを示して下さるか、先生の講演にしっかり耳を傾けましょう。    

2009年4月27日 (月)

結婚式ラッシュ(4月26日)

  このところ結婚式が続いています。昨日は一組、きょう一組、29日はSさんとAさん、そして六月にはもう一組の結婚のお知らせが入りました。まるで結婚式ラッシュのようで珍しいことです。

 そこで、結婚の準備会でも必ず話しますが、キリスト教の結婚観において一番大事なことは、二人を結婚に導いたのは神であるということです。ここに結婚の確かさがあります。好きだとか気が合うとか言っても、それは人間の思いですから、絶対に変わらないとは言えないでしょう。ですから、ただ人間的なものだけを土台とする結婚はもろいところがあります。その危うさの残る結婚を確かなものとして下さるのは神なのです。

 第二のことは、聖書に「夫婦は一体である」とあります。これは他のどんな人間関係よりも強固であるべき関係です。親子や兄弟の関係は運命的なもので、気がついたら親子であり兄弟なのです。自分で選んだわけではないのです。しかし、夫婦の場合は、もとはと言えば赤の他人でした。しかし、結婚することにより「一体」と言われるほどに強固な関係になったのです。「なった」と言いましたが、「なる」と言う方が正しいでしょう。互いに助け合い仕え合い、共に喜び共に泣くことによって、夫婦の絆はますます強固なものとされていくのです。ですから、私たちは生涯をかけて夫婦になっていくといっても良いのではないでしょうか。若いカップルが、このことを心に留めてくださると幸いです。

 第三には、愛の大切さを言わねばなりません。結婚式ではコリントⅠ13章が読まれます。これは「愛の賛歌」と言われる章です。こんな美しい文章は他にないと言われるほどですが、ここで言われている「愛」はアガペーという言葉で、「神は愛である」という時の愛です。愛は神から来るのです。その愛の一滴を受けて私達も互いに愛し合いましょう。

2009年4月18日 (土)

ウェスレー神学入門(4月19日)

  東京聖書学校の新年度スタートと共に、赤羽教会では信徒夜間講座が始まりました。17日の開講礼拝は深谷春男師の開講メッセージ、私はウェスレー神学入門①を担当しました。二十名ほどが集まり、良いスタートを切ることができて感謝でした。私は「ウェスレーにおける救いとは」と題して話しましたが、レジュメから大事な所を以下に抜粋します。

 「救いとは、堕落してしまった人間の性質を原初の理想である〈神の像〉(Imago Dei)に回復させることである。第二のアダム(キリスト)の像に向かっての回復とも言える。
(ウェスレーのことば)『救いとは、単純に地獄からの解放や、天国に行くことを意味するのではない。救いとは、罪から現在解放されることを意味し、魂を原初の状態・創造時の無垢へと回復することを言う。それは人間に吹き込まれた神性の回復であり、義・真のきよめ・正義・慈愛・真実といった〈神の像〉へと魂が刷新されることである。』

○救いの全課程を貫く二つの原則。
(1)救いに関する主権は、神にのみある。
 『信仰と救いの創始者は、神おひとりである。我々の内に働いて、志しを立てさせ、ことを行わせて下さるのは神である。神こそは、すべての祝福の唯一の贈り主であり、すべての良い業の唯一の創始者である。人間のうちには功績はもちろん、実行する力さえない。すべての功績は神の御子のうちにあり、すべての力は神の霊のうちにある。救いのすべての働きは、神の霊の働きかけによる。』
(2)聖霊の主導に応じるか、拒否するかという能動的な役割が、人間の側に与えられている。もちろん、聖霊の先行的導きを必要とするが、聖霊に信頼し、聖霊の働きかけに身を投げ込み、与えられた賜物を活用するという積極的な信仰姿勢が求められる。
 以上の、二つの原則は、ウェスレー神学において、悔い改めにも、新生にも、聖化にも、救いの全課程に一貫して適用できる公式である。」    

2009年4月11日 (土)

ホ群と東京聖書学校(4月12日)

  「ホーリネスの群」の年会が終わりました。今年は信徒代表のA兄と教師3人が出席しました。会場の越谷コミュニティセンターは昨年に続いて二度目ですが、かなり広い建物で、余裕を持ってプログラムを進めることが出来ます。さらに会場費が安いことと、東京聖書学校(吉川市)の隣町ですから、学生たちも事務局も近いという利点もあります。本当は聖書学校でできればベターですが、現在の学校の施設では無理でしょう。かなり前に吉川の施設を借りて年会を開いたことがありますが、それも少し無理だったという記憶があります。

 今、聖書学校の隣接の駐車場を獲得したい希望があり、学生たちも祈っていますが、地主さんがOKと言ってくれるかどうか、そこが大きな関門です。昨年度は始めと終わりに二度、その件で不動産屋を訪ねました。まだ先方には直接話しておらず、間接的に地主の意向を打診している現状です。
 もし、隣接地が獲得できたら、どのような建物を建てるのがよいだろうか。一つは、年会やセミナーを開くことができる大部屋が一つ欲しい。さらに、学校の家族寮がどうしても必要です。さらに、現在の施設拡充基金の元になった飯淵ヨシ先生の献金は、隠退教師の居室を欲しいという願いからでした。そこで私の考えでは、1階は玄関ロビーと事務室程度として、あとは駐車場、2階は広い会議室(多目的室)、3階を家族寮と教師の居室とし、教師の居室は適当な価格で希望者を募るのはどうでしょうか。それは建築費の一部を補うことにもなるでしょう。今年度から新舎監として深谷師夫妻を迎えましたが、舎監と共に、隠退教師や学校の教師も学校に身近に関わり支えることは必要ではないでしょうか。実践的な伝道者養成のために、施設等のハード面と共に、ソフト面でも充実させていくことが求められます。学校は群の結束のために中心的役割を果たしてきました。さらに、名実共に群のセンターとなるために全群の協力が求められます。   

2009年3月14日 (土)

アシュラムに招かれて(3月15日)

 更新を忘れていました。先週は、召天されたT兄のことを記しましたので、1週飛ばします。
  
 去る7日、8日、西川口教会アシュラムに招かれて共に恵みに与ることが出来ました。アシュラムはヒンズー語で、アは離れる、シュラムは労働、つまり労働から離れて、グルーと呼ばれる教師の下に冥想に励むというヒンズー教から始まったものですが、インドでは様々なアシュラムが行われてきました。インドに宣教したスタンレー・ジョーンズは、ガンジーのアシュラムに招かれてそれを体験し、これこそキリスト教に必要なものと受け止め、インドでクリスチャン・アシュラムを始めました。それを日本にも紹介し指導してくれたのです。日本でクリスチャン・アシュラムが始まってから半世紀になります。私は1970年、スタンレーが最後の来日の時、伊豆天城山荘で開かれたアシュラムに出席したのが最初でしたが、その後、チイロバ先生こと榎本保郎師との出会いもあり、何度もアシュラムに出席し恵まれてきました。かつては東北でもアシュラムが開かれていましたが、このところあまり聞きません。機会を見てこの教会でも開きたいと願っています。
 クリスチャン・アシュラムの特色は、グルーはイエス・キリストであって、誰も教師にはならない。従って、アシュラムでは講師と言わず、助言者と言います。助言者は説教もしますが、アシュラムの大きな特色は、参加者が自分でみ言葉に聴くという「静聴」を重視します。また、聴いたみ言葉を互いに分かち合い、共に祈ることが肝要です。今回のアシュラムでも2回の静聴の時があり、数名の分団(ファミリーという)で、各自が聴いたみ言葉を分かち合ったのですが、とても恵まれた一時となりました。最後の充満の時(今回は主日礼拝でした)には、皆さんの顔が輝いて、涙を流してみ言葉に聴き入っている方もありました。
 一月余り前にアシュラムの準備会があり、そこで「アシュラムはどれだけ祈って備えたかによって決まる」と申しました。西川口教会の兄姉がその言葉を受け止めて、よく祈って備えたからこそ、恵みも豊かであったと信じます。ハレルヤ。   

2009年3月 2日 (月)

仙台朝祷会(3月1日)

  仙台朝祷会は去る2月25日、第2464回を迎えました。47年以上、一回も休まず毎週開かれてきたとのこと。始めからのメンバーの一人は佐藤利吉兄(以下、佐利さんの愛称で)で、殆どはじめから佐利総本家の事務所や佐利さんの自宅が会場になってきました。私が40数年前に出席した頃は、青葉通りの佐利総本家の2階で行われていました。その頃のメンバーは殆ど天国に行き、佐利さんも98歳になり、ついに自宅で行うことができなくなりました。そこで、当教会が会場になったのです。レギュラーメンバーの半分は当教会員であり、場所から言ってもここが一番便利であることは皆さんの頷くところでしょう。それにしても、ほとんど休まず出席しておられた阿部知子姉は、ここに会場を移した2月18日には公済病院のICUに移され、皆さんに祈られました。会場がここになったことはもちろんご存じでしたが、一度も出席することなく天に移されたのは、ちょっとモーセのようですね。

 青葉荘教会の朝祷会メンバーの元祖は斎藤文蔵兄(潔兄、義兄の父上)です。私も文蔵兄に誘われて出席するようになったのです。内ヶ崎たまき姉もそうだったと聞きました。
 朝祷会の目下の課題は、新しいメンバーが加えられることです。できれば、若い方が一人でも加えられたら皆大喜びするでしょう。佐利さんも出られなくなり、知子姉が欠けたので、誰かがその席を埋めてくださるはずです(すでに埋まりつつある)。
 佐利さんのマンションから教会の集会室に移って、少し感じが変わりました。前は家庭的だったのが、ここでは教会の集会という感じになりました。でも、祈った後には簡単な朝食が出て、交わりの時が持たれます。朝祷会の一つの伝統です。東京では丸の内朝祷会と早稲田朝祷会に招かれた時だけ出席しましたが、仙台に来て仙台朝祷会が一番アットホームな感じがしました。佐利さんの家からは離れましたが、この伝統を残すことはできないでしょうか?

2009年2月25日 (水)

葬儀の日程

2月22日の週報短文は余りにもプライバシーに関わるので、ここには教会の葬儀のことについて一言書きましょう。それは日程のことです。
 葬儀は待ったなしですから、そんなに選択肢はないのですが、今度の葬儀のように金曜の朝に召されたので、土曜、日曜となると、主日礼拝にぶつかることになります。それを避けて、一日延ばして日曜夜と月曜にすれば問題はないですが、今回はご遺族の希望を入れて土、日にしました。その場合、祭壇をどうするかが、次の問題になりますが、今回は礼拝の花を活けてくださった姉妹ですから、沢山の花が祭壇にありました。それは葬儀にはつきものの白い花ばかりでなく、故人の願いもありカラフルな美しい花が沢山でした。それらの花でご遺体を囲むようにして講壇の半分は花とご遺体で占め、真ん中だけはいつもの礼拝のようにしましたが、私も初めてやってみてとても良かったと思います。礼拝を休まなかった故人との最後の礼拝との思いを深くし、故人は一番良い日に召されたと思いました。
 私たちの教会は、幸い講壇が比較的広いので可能であったとも言えますが、工夫次第でどこの教会でもできることではないでしょうか。ご参考までに。

2009年2月 7日 (土)

安倍豊造先生と仙台(2月1日)

 2月8日の短文をアップして、2月1日のを載せていなかったことに気づいた。順序が逆になりましたが、遅ればせながらアップします。
   
 安倍豊造先生の召天30年記念礼拝で更生教会に行きました。安倍先生は小原十三司先生の良い意味のライバルで、ホーリネス教会の長老格でした。
 安倍先生は、私たちの教会との関係も深い方です。少し古い話になりますが、昭和六年春から二年足らず、先生は仙台で伝道されました。というのは、その年の二月に先生は中田重治監督に辞表を提出して、同僚の山崎亭治師と共に仙台のジャパン・レスキュー・ミッションという宣教団で働きました。当時、同ミッションの聖書学校が仙台にあり、先生はその教授兼生徒監に迎えられ、学生達と共に激しい伝道実践を指導したのです。あちこちで天幕伝道、街頭伝道をしたとのこと、塩釜、富谷、吉岡、北仙台、槻木、富沢、岩切など各地に伝道所を開設し、また伝道応援をしました。
 ところが、レスキュー・ミッションは、昭和7年12月末をもって伝道部を廃止することになりました。そこで先生は、中田監督が頭を下げて「帰ってきて欲しい」という懇請に、ホーリネス教会に復帰したのです。そして、レスキュー・ミッションが開拓した伝道所の中で、富谷などは自然の流れで日本聖教会(ホーリネス教会の分離により改称された)に託されることになりました。ですから、内ヶ崎たまき姉は昭和16年に巡回伝道に来られた安倍豊造先生によって富谷伝道所で受洗しておられます。その翌年にホーリネス系の教会に国家による宗教弾圧が起こり、先輩たちの多くが投獄され、教会は閉鎖されることになりました。
 戦後、信教の自由の時代が来て、ホーリネス系の教会も復興し、伝道を再開しましたが、安倍先生は中島代作先生と親しく、何度も仙台に応援伝道に来られたはずです。私が青年時代にこの教会でお世話になった時にも、安倍先生は夏期聖会の講師として来られ、十八番の「主の祈り」講解や、天与の美声で朗々と聖歌、讃美歌を独唱されました。覚えている方もおられるでしょう。        

記念誌座談会(2月8日)

  先日、記念誌に載せる座談会を行った。参加者は各年齢層の男女に、私も含めて八名、他に司会者二名、記録三名、また、100周年の委員会から数名が陪席した。休憩も含めて三時間以上、じっと聴いているだけというのもつらかったのではないか。
 内容は、当教会の過去・現在・未来を語るということで、内容が抱負でまとまりがつかなくなることを恐れて、委員会では予め論点を絞って参加者に考えてきて頂くことにした。そういう準備があったので、当日は比較的スムースに進行したと思う。司会者の力も大きかった。但し、発言者には一回三分を目途にお願いしたので、十分に語れなかったところもあったであろう。あのことはもっと語りたかったという方もおられるに相違ない。記録が完成したら、参加者全員に読んで頂いて、後でつけ加えて頂くこともよいと思う。皆がそれぞれにつけ加えたら、紙上座談会の色彩が濃くなるかも知れない。 
 さて、座談会を終えての感想を少し述べるならば、やはり未来は難しい。過去・現在から未来を語るということで、今までの歩みを飛び越えて語ることはできない。しかし、悪くすれば伝統に囚われることにもなる。伝統は乗り越えるためにあると言った人があるが、時には思い切った新鮮な発想、夢が語られてもよいと思う。100年の歴史を刻んできた我らの教会だから、急ハンドルは切れないだろうし、何かあれば改革派と保守派がうまくバランスをとっていくと思う。先週の短文に記した安倍豊造師は、私が信仰の冒険をしようとしないのが歯がゆそうだった。自分が若い時は、こんな臆病な伝道ではなかったという自負があったと思う。
 さて、この座談会記録がまとまったところで、もう一度、特に若い人々(自分は若いという気持の人)に集まってもらって、再度、目的を絞って第二回目をしてみるのもどうだろうか。本当は自分も参加したかったと言う方があれば、その時にはぜひ積極的に発言して頂きたい。          

2009年1月17日 (土)

教会の交わり(1月18日)

  新年最初に届いた教団新報は山北宣久総会議長の巻頭言であった。その中で、教会の交わりについて面白いことを記しているのでご紹介しよう。
 「神の痛みの神学」で有名な北森嘉蔵師の言葉を引用して、教会の交わりに3つのタイプがあるという。 
 第一は「砂漠タイプ」。掘っても掘っても水が出てこない砂漠の如く、教会生活を重ねても人生という大地を潤してくれるような水に相当する真実な交わりが与えられない。「行けども行けどもただ砂原」(讃美歌244番)といった状況が教会を犯す時、教会は命を失う。兄弟姉妹と言いつつ、赤の他人に過ぎない時、教会の交わりは形骸化する。
 第二は、「湿地帯タイプ」。湿地帯というのは水が過剰になった場合に生ずる。始終ベタベタくっついていなければ不安というのでは教会生活を不健全にする。湿度の高い梅雨期に食物が腐るように、余りに過剰な交わりは腐敗を招く。
 第三は、「地下水タイプ」。これは普段は淡々としているが、いざという時には真実の兄弟姉妹の交わりが噴き出しているといった姿をさす。古来「君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ」(荘子)と言われる。これは認められてよい。しかし、いつまでも淡々としているのではない。こんなはずではなかったという時、地下水の如き交わりが急場を救う。荒野、枯れ野の如き世界にあって、地下水の如き交わりが人生を潤す。
 山北師はエフェソ2章19節の「神の家族」という言葉を引いて、「そうなのだ。教会は神の家族なのである。(讃美歌434番)家族にもトラブルや敗れもあろう。しかし、感情を爆発させては、これを愛によって消し止める訓練場、道場として教会は鍛えられ、成長していく」と説いているが同感である。
 以前に何度か申し上げたが、「教会はきよめの道場である」ということを思い出して頂き、私たちの交わりがお互いを成長させ、そして教会全体を成長させ、造り上げていくものでありたい。    

2009年1月10日 (土)

三十年が過ぎて(1月11日)

  百周年記念事業委員会では、近く記念誌編集に関わる座談会を開くことになった。これは記念誌の重要な一頁を飾ることになると信じている。
 実は、東京中野の更生教会が今年八十周年を迎えた。私達が赴任して十年目に五十周年を迎え、その時現会堂を献堂し、記念誌を出版した。この度その記念誌を繙いてみたが、その終わりに座談会の記録がある。座談会の出席者は十三人、私たちも若かったので、その座談会の出席者で五十代以上はわずかに三人だけである。その中二人は天に召され、今八十五歳の姉妹が地方でご健在である。後は、あの時から三十歳ずつ歳を取ったが、東京を離れた人を別にして、今、教会で中心的に奉仕しておられる。

 その座談会で、特に興味を持ったのは「将来の展望」という後半部分である。皆がどういう発言をしたのか、自分は何を言ったのか、その後更生教会はどのように歩んできたのか、それらのことをあれこれ思い合わせて、興味深く座談会の記録を読んだ。その時、自分たちが教会を辞任することになることは全く考えていなかった。名誉牧師であった安倍豊造師が天に召されて半年余り、皆が寂しさを乗り越え、若い牧師を盛り立てて、与えられた新会堂で積極的に伝道していこうという意気に燃えていた。更生教会もホ群の大事な教会の一つではあるが、ホーリネス信仰が全会員に徹底しているとは言い難かった。そこで、座談会でも自分たちはどういう信仰に立とうとするのか、その根本的な点を語り合い、あまり具体的な話は出ていない。

 その五年後に私たちは更生教会を辞任して香港へ行き、教会は新しい牧師を迎え、さらに六年後にはその牧師も辞任し、現在の原田謙師を迎えて二十年近くになる。原田師はホ群委員長を務め、今も教団の常議員その他の要職にあり、若々しくご用を続けておられ、教会も祝されている。これらのことすべてが人の思いを超えて、神の御計画が実現したのだと信じて疑わない。来る25日の礼拝(安倍豊造師召天30年記念礼拝)に招かれ、久しぶりに講壇に立つ予定である。

2009年1月 5日 (月)

新年の予定(1月4日)

  教会創立百周年の年を迎え、今年の予定について大事なことをここに記したい。
  創立百周年記念礼拝は十月十一日を予定している。説教は中島豊師にお願いしたい。同日午後に、近隣の諸教会に案内して感謝の記念式典と茶話会を行いたい。また、この日までに記念誌を発刊したいと願っている。記念誌については、皆さんの証しも次第に集まり、主要な部分は大体まとまりつつある。残された大事なことの一つは、教会の過去、現在、未来について座談会を行うことで、来る二月一日(日)午後を予定している。
 記念伝道会は、仙台圏宣教協力会が四月二十六日、青年文化センターにブラウン・ヒュー師を講師としてお招きする計画を進めているので、これに積極的に協力し、私たちの伝道会として行う。ブラウン・ヒュー師は元テロリストで、今は全く新しい人に変えられて伝道に励んでおられる。また、音楽は先にお出でいただいた岩渕まこと・由美子ご夫妻を再びお迎えする予定である。
 五月二十四日はJ・ウェスレーの回心記念日であるが、この主日に藤本満師(イムマヌエル高津教会)を迎えて特別伝道礼拝、記念講演会を計画している。藤本師はホーリネスグループを代表する若手の指導者で、「この節目の年に、ぜひ記念講演を」とお願いしたら快諾された。祈りと期待をもって、師を迎えたい。また、六月と十月に二回の記念コンサートを開き、特にこの地域の方々をお迎えしたいと願っている。六月はソプラノの第一人者・菅英三子氏、十月はオルガンの今井奈緒子氏とトランペットの神代修氏にお願いしている。
 他に、八月には若き日にこの教会で奉仕され、今柏崎で牧師である吉澤昭男師、十二月には当教会の献身者・本間義信師をお迎えする予定である。

2008年12月28日 (日)

一年を振り返って(12月28日)

 今年も最後の主日礼拝を迎えました。昨年最後の週報短文にも同じ題で書きましたが、今年も一年をざっと振り返って見たいと思います。
 一昨年はクリストファー・サン師の特伝やラブソナタの集会など、余りにも行事が盛り沢山で心と体の休まる時がなかったという声もあり、その反省に立って、今年は特伝も秋に絞るなど、行事は比較的少なくして来年の百周年に備えました。それでも集会はいろいろありました。それは当教会の会堂の広さや便利さから、諸集会に用いられるからです。教区においても超教派の働きにおいても、センター的役割を果たしています。このことは今後も続くでしょう。それをマイナスと考えず、このような会堂を与えられたことを感謝し喜びとしていきましょう。役員会では毎回、行事や会堂貸し出しについて協議していますが、教会として無理なく受け入れる態勢を整えていくことが肝要と考えます。
 さて、個々の行事や集会について触れることは出来ませんが、特に記憶に残るのは2月のケズィック・コンベンション(茂庭荘)、5月の伝道セミナーと教区総会、6月の森田伝道師の就任式と思いがけない岩手宮城内陸大地震、7月ファミリーキャンプ(蔵王自然の家)、8月夏期聖会(八幡平ロイアルホテル)、応援伝道(酒田暁星教会)、こころの友伝道全国大会(茂庭荘)、9月聖化大会(村上宣道師)、10月教区婦人研修会(金ヨン師)、特伝(村上宣道師)、11月教区の集い(山形学院)、賛美礼拝(宮城学院ハンドベルOG)、12月創立復興記念礼拝・愛餐会とクリスマス諸集会等々。
 1年間の召天者は3名、1年間の受洗者も3名、他に3名の姉妹たちを正会員として迎え入れたのは心強いことでした。司式者としては例年になく婚約式、結婚式が多い年で、赤ちゃんも何人か生まれた希望の年でもありました。万事を益にしてくださる主に感謝して。

2008年12月22日 (月)

バプテスマの恵みに(12月21日)

 きょうの礼拝でO兄が受洗される予定です。今年のクリスマス礼拝は、受洗者が与えられないかと淋しく思っておりましたら、O兄が申し出て下さりうれしく思います。兄弟とは朝の体操仲間です。近くの上杉公園で、毎朝6時から数名で体操をしていますが、私たちもラビを散歩に連れていき、仲間に入れて頂きました。O兄も足がご不自由にも拘わらず、殆ど毎日のように来ておられます。最近は、さすがに30分の体操はきつくなり、途中からの参加ですが、それでもがんばっておられます(冬は個人の家を会場としていますので、兄弟はお休みです)。今年の夏はご一緒に八幡平の東北夏期聖会にも出席されました。奥様とご一緒に花山のファミリーキャンプにも参加されました。これからも良きお交わりができることを祈ります。奥様もご一緒に受洗をと願いましたが、まず兄弟が一足先にということになりました。奥様のためにも、お祈りください。兄弟は薬剤師で、市内でながく薬局を営んでおられました。ご趣味は絵画と音楽で、よく展覧会やコンサートにもお出かけです。

 きょう東京の三軒茶屋教会でU姉が受洗される予定です。U姉は当教会の創立時に、中田重治師に協力して伝道館を建てた伊藤卯三郎兄のお孫さんで、伊藤アイ姉の姪に当たります。父上の恵五郎兄が、藤沢で医者として現役であったとき、突然病で天に召されました。30年も前のことです。不思議なご縁で私が葬儀の司式をさせて頂いたのですが、その時にお目にかかったのが最初でした。母上が藤沢から中野の更生教会に熱心に通って受洗され、その後藤沢教会に転会して教会生活を続けておられましたが、ご高齢になり昨年天に召されました。
 今春、U姉は姉上と当教会をお訪ね下さり、自分も信仰を持って行きたいと語っておられましたが、このクリスマスに受洗に導かれたのは感謝でした。伊藤卯三郎兄らの長い祈りが実を結んだことを覚え御名を崇めます。さらに主の業が前進しますように。

2008年12月 1日 (月)

牧野一穂先生(11月30日)

  今年の教区の集いは山形学院で行われましたが、充実した良い集会であったと思います。主講師は牧野一穂師で、教団からインドに派遣された信徒宣教師でした。インド中部のヒマラヤに近いアラハバード農業大学で40年間働き、昨年隠退し帰国されました。師は山形大学を卒業しましたが、その頃インドの農業開発のために働いた農業技術者の帰国報告を聞く機会があり、インドの多くの人々は飢えで苦しんでいる、日本の進んだ農業技術援助、協力を必要としているという訴えを聞き、インドに行く決心をされたとのこと。当然、迷いも躊躇もあったでしょうが、み言葉に押し出されるようにインドに飛び込んで行かれたとのことです。

 インドのキリスト教徒は今も昔も2パーセントほどですが、その多くはカーストの一番低い身分のシュードラ(隷民)かアウトカースト(カーストにも入らない)、または少数民族の人々です。師は、農村教会を訪ね、そこで農業開発に携わっている人々と話し合い、特に青年達が農業学校へ行く機会がないことを知り、そういう青年たちをアラハバード農業大学に招き「農村青年指導者研修コース」を作って、彼らの指導に当たったとのことです。夫人の由起子師も先生と共に働き、「農村婦人の人権、地位改善・向上に働く婦人指導者の研修」「女子高等教育の普及と農婦人の識字学級」「幼児・初等教育の普及」等、広く農民の生活向上のために奉仕し、同時に、困難な農村の働きに忍耐を持って取り組むためには聖書の学び・み言葉の支えが不可欠であることを身をもって知ったと語られました。

 若き日から40年もインドで奉仕し、帰国して那須に暮らし、アジア学院の研修生たちとも交わる時を持っておられるようですが、インドと日本の社会の違いを肌で感じておられるでしょう。講演の最後に「日本の教会はラオデキア教会のようで生ぬるい」(黙示録3章)と言われた言葉が印象的でした。先生の働きを継ぐ若者達が起こされますように。

2008年11月23日 (日)

「主の御心であれば」(11月23日)

  前号に、以前に書いた「今後の予定」を再録して祈って頂きたいと書きましたが、最後に書いたみ言葉を省略したので、今回はそれを書きます。
「あなたがたは自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。…主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしようと言うべきです。」(ヤコブ4・14、15)
もう一つつけ加えれば、箴言19章21節です。
「人の心には多くの計らいがある。
 主の御旨のみが実現する。」

 私事で恐縮ですが、私が大学を卒業して就職するとき、東京目黒にある半官半民の金属材料技術研究所に内定していました。信頼する先輩がそこにおり、その人のもとで研究を続けたいと思ったのです。ところが卒業間近の2月末か3月初めに、その先輩から電話があり、研究所の事情でどうしても君を採用出来なくなったということでした。やむを得ず他に当たることにしました。そして、教授から東北大学工学部の研究室を紹介されたのです。そこがどんな研究室か、教授はどういう人か、全く分からないまま仙台に来ることになったのです。それから数年を仙台で過ごしたのですが、私にとって決定的であったのは当教会に導かれたことと、そこで中島代作先生に出会ったことでした。
 もし予定通り、東京に就職が決まっていたら、もちろん仙台に来ることはなかったでしょうし、中島先生や皆さんにお会いすることもなかったでしょう。そうしたら、私のような臆病な人間が、伝道者、牧師になることはなかったと思います。すると今までの自分の人生はなく、今この教会で牧師であることもなかったのです。これらはすべて神の御計画であり、そこに神の恵みと憐れみがあったのだと思わざるを得ません。自分のことを例に申し上げましたが、皆さんも、それぞれ思い当たることがあるでしょう。結婚も仕事も家庭もすべて神の導きであったことを覚え、今後も主に信頼して委ねましょう。 

2008年11月 8日 (土)

オバマ氏の勝利(11月9日)

  先週はホ群のセミナーが市川で開かれ、続いて吉川で委員会等が続きましたが、その間、気になっていたのはアメリカの大統領選挙でした。オバマ氏の勝利を知ったのは、5日午後に市川から吉川へ移動する車の中でした。ラジオのスイッチを入れるとマケイン上院議員の敗北宣言が流れていました。オバマ氏の勝利演説は聞けませんでしたが、後にインターネットで見ると、なかなか格調の高い長文の演説です。こういうのを見ると、「アメリカだなぁ」と思います。これはアメリカ建国以来、いつもどこかでしっかりと受け継がれてきた理想主義の流れです。建国の父祖たちの信仰がその底流にあります。

 7日の朝日新聞を見ると、アフリカから黒人が奴隷として連れてこられて389年、リンカーン大統領の奴隷解放宣言から145年、キング牧師がワシントン大行進で語った「私には夢がある」という有名な演説から45年、ついにここに黒人大統領の誕生をみたことは、私たちにも感慨深いものがあります。オバマ氏が何度も語った「私たちには出来る」という言葉は、キリスト者が信仰に立って「人には出来ないが、神には出来る」という聖書のことばであるはずです。キング牧師の夢も、もちろん彼の信仰から来るものでした。彼は凶弾に倒れましたが、彼の夢を受け継いで戦った人々がいたからこそ、今日のオバマ氏の勝利があったでしょう。

 しかし、オバマ氏も言っているように、これからが正念場です。アメリカも世界も容易ならざる難局に直面しているのですから、誰が大統領になっても前途には困難が山積しています。願わくは、オバマ氏が理不尽な敵から守られ、彼が願っている思い切った改革を実現してもらいたい。世界中が注目しています。
 なお彼が引いた「人民の、人民による、人民のための政治」はリンカーンの言葉として有名ですが、実は14世紀の宗教改革の先駆者であったジョン・ウィクリフ(聖書を初めて英訳した人)の言葉であることをインターネットで初めて知りました。

2008年10月11日 (土)

金ヨン師の講演(10月12日)

  教区婦人研修会で金ヨン師の講演を久しぶりに聞いた。30年近く前、まだ先生がお若い頃に東京で一度お聞きしただけだが、強い印象を受け、以来、何冊か師の本を買って読んだ。若い頃から傑出した器と思っていたが、いよいよ磨きがかかって、会場を笑いの渦に巻き込みながら、大事なことはしっかり語るところなどとても真似ができることではない。

 ユーモアをもって日本人の弱点をズバリと衝く。かつてマザーテレサが、日本人ほど物が豊かで心が貧しい国民はないと警句を残していったが、金師も同様のことを言っておられた。そこで、自分は今の日本で主イエスが言われたとおり、「何を食べようか、何を着ようか」と思い煩わない生活を送ろうと決心して、お金に頼らない生活にチャレンジする。住宅は、友人にスーパーの2階の一室を無料で提供されたので、食事はスーパーの食糧の残りで済ませることにした。着るものも一切買わず、大学に就職が決まったときも、全国の友人達から古着など段ボール箱で送られてきて、毎日着ていくものを替えて学生に呆れられたと笑わせた。
 特に、子供の育て方については、学歴には一切こだわらず、高校(それも公立高校)までしか学資は出さない、後は大学に行きたければ自分で働いて行きなさいと、最後までそれを貫いた。
 御自分が乳ガンと分かったときも、そのまま八ヶ月の放浪の旅に出て、ガンがすっかり大きくなってしまい、医者に叱られ、手術をしても助かるかどうか分からないと言われながら、手術後もそれきり病院にも行かず、抗ガン剤も用いず、山歩きをして元気になってしまった。
 とにかく、信仰と無謀との境目の際どいところを自分の信念を貫いてきたという証しだった。この事実だけ書くと非常識としか見えないが、師なりの理由がある。それを笑わせながら語るから妙に説得力がある。韓国のクリスチャンは「徹底する」という点で、私たちの遠く及ばないところがある。また、最近書かれた本も買い求めて読んでいるが、面白く、警世の句に満ちている。現代の預言者のごとき人である。

2008年10月 5日 (日)

超教派について(10月5日)

  先週は地区の講壇交換があり、また、超教派の牧師会が二つありました。そこで、超教派について書いてみましょう。
 今、私が関係している超教派の運動・組織を記せば、まず「朝祷会」です。これは全国に150程あると聞きます。信徒が中心になって推進し、牧師も参加して奨励するのが普通の形と思われます。
 さらに「仙台キリスト教連合会」の世話人の一人になっていますが、これはカトリックから福音派まで、仙台では一番幅の広い集まりではないでしょうか。夏の平和一致祈祷会と正月の合同礼拝、合同祈祷会が恒例になっています。
 次は「東北ケズィック・コンベンション」です。これはまだここ2,3年のことですが、日本ケズィック・コンベンション自体は50年近い歴史があります。次にクリストファー・サン伝道会から継続する「仙台圏宣教協力会」も始まったばかりですが、「総動員伝道」とタイアップして、来年1月には伝道セミナー、4月には伝道会が予定されています。
 昨年の「ラブ・ソナタ」の集会は、韓国のオンヌリ教会の主導で日本の各都市に始まった一大キャンペーンです。仙台圏でもかなりの教会が協力しました。これが今後どのように継続されるか。
 「福音主義牧師会」も2,3年前から仲間に入れてもらいました。「東北教役者会」にも昨年から出ていますが、恵まれた交わりと研鑽の時です。
 きよめ派の教会が連合で「聖化大会」を開いていますが、今年も恵まれました。
 昔から参加しているのは「アシュラム」です。これも超教派で開かれている祈りの集いで、この教会でもやってみたいと願っています。「こころの友伝道」全国大会が今年は仙台で開かれました。この二つはスタンレー・ジョーンズの紹介によります。
 しかし、私たちの教団自体が昔の諸教派の集まった合同教会ですから、超教派のような性格があります。講壇交換の時などには、特にそれを感じます。

2008年9月30日 (火)

二つの聖化大会(9月28日)

  去る9月15日は村上宣道師を迎えて第20回宮城聖化大会が開かれ、出席した一同大きな恵みを受けた。また、9月23日には米沢で第13回山形聖化大会が開かれ、小僕が招かれてご用をしてきたが、二つの聖化大会を比較して感ずるところがあったので以下に記してみたい。
 山形で聖化大会が開かれるようになる前は、山形の教会からも宮城の大会に参加していたとのことで、以前の当教会の大会に出席したことを懐かしく語る方もおられた。
 山形大会の特色は、聖会のはじめの30分は賛美の時で、青年達が数名前に立って次々と賛美を歌う。それが聖会の空気を盛り上げ、祈りの雰囲気ができる。だから、聖会全体がスムースに流れてとても話しやすかった。証し者も短い証しを自由に語っておられた。全体にとても親しみのある温かい聖会という印象を受けた。
 特に午後の賛美奉仕は素晴らしかった。ソプラノ独唱とピアノとチェロによる三人のアンサンブルで三曲を賛美したが、一つひとつ心に沁みる演奏であった。
 昼食は教職と信徒に別れ、お弁当と野菜の豊富な惣菜が並び、この準備も容易ではなかったろう。教職は拾数名で、かつてない大人数だと委員長の先生もお喜びだった。一言ずつの聖会の感想や自己紹介も楽しかった。信徒の会食もこのようになされたのであろうか。会場教会には部屋が沢山あり、親しい交わりができることも恵まれている。
 全体として、温かく人を迎える態勢ができているのに感銘を受けた。良い意味での田舎のよさではないか。仙台はやはり大都会である。東京の大きな集会になると、もっとサバサバした感じになる。これはある意味でやむを得ない面もあろう。地方の教会から上京した青年達が都会の教会に定着できないと言われるのも、このような違いによるのだろうかと考えさせられた。

2008年9月26日 (金)

隣人に証しできますか?(9月21日)

   
デニス・キンロー『エマオの道で』の中に、次のような師の証しがある(9月7日)。

 あるとき私は飛行機で乗り合わせた男性に証しをする機会を得ました。空の旅も終わりに近づいた頃、彼は私の方を向いてこう言いました。「こんなふうにお話しができたのは偶然だと思いますか?」
私は笑いながら言いました。「いやあ、偶然だなんて思いませんよ。なぜって、私はこの便に乗るつもりはなかったのですから」……

 彼も実は、この便に乗るつもりはなかったとのことだった。乗るつもりもなかった男同士が隣り合わせに座ったことで、キンロー師は隣人に主を証しすることができたのだ。もう少し引用しよう。

 飛行機の車輪が滑走路に接地したその瞬間、私は何とかしたいという思いがこみ上げてきました。彼をこのまま行かせたくなかったのです。私は主イエスについて彼と真剣に話ができる格好の席に座っていたわけですから。しかし、そのとき何かが私に語りかけた。「わたしはわたしの方法で、彼に最善の働きをなしているのだ」と。…

 去る14日の京都復興教会の礼拝に、思いがけなく東京聖書学校卒業生のM師(新居浜教会)が出席しておられた。一緒に昼食のうどんを食べながら、次のような楽しい話や証しを聞いた。 
 東京への夜行便(長距離バス)で隣りに乗り合わせた女性と親しく語り合う機会が与えられ、この女性が新居浜教会に出席するようになり、ついに主イエスを信じてバプテスマを受けたとのこと。また、家計を助けるためにそば屋でアルバイトをしているが、その店でも客に良い証しができると喜々として話していた。キンロー師の証し以上の彼女の証しを聞いて、励まされるやら感心するやら。

ウェスレー・メソジスト学会(9月14日)

 週報短文をアップするのをすっかり忘れていました(お恥ずかしい)。以下に2週間分をアップします。
 
 9月8日、青山学院でウェスレー・メソジスト学会が開かれた。首都圏を中心に30名余の出席だったが、懐かしい方々にもお会いできた。
 これは年一回、総会も兼ねて開かれるが、今年は小研究発表が二人、講演が二人であった。講演は「ウェスレーの教育的遺産」と「スザンナ・ウェスレーの教育論の成立」という教育論に関するもの、小研究発表は明治27年に発行された「スザンナ・ウェスレーの伝記」と「福音協会史―成全の教理の盛衰」と題するもので、後者に特に関心を持った。「成全の教理」とはウェスレーの「キリスト者の完全の教理」のことである。これがアメリカと日本のメソジスト教会にどのように伝えられ、また、忘れられていったかを歴史的に辿るものであった。

 ウェスレーの有名な言葉で「キリスト者の完全の教理は、メソジストと呼ばれる人々に神が託されたグランド デポジトムである」の英語の部分を「宝」と訳されたりするが、実は「定期預金」のようなもので、満期になると預金を降ろしてゼロになるように、歴史的には140年が過ぎると一旦忘れられるという。それはアメリカでもそうであったが、日本でもそうなるのではないか、日本に「キリスト者の完全」が伝えられて140年が過ぎようとしているが、一体、日本キリスト教団の教会でどれだけの教会が、この教理を知っているか、また、守っているか、ゼロになりつつあるのではないか、という厳しい指摘であった。その最大の理由は、神学校でウェスレーが説かれなくなったからだと言う。東京神学大学でもウェスレーは殆ど教えられず、他の教団の認可神学校でも同様ではないかという。これは旧メソジストの伝統に立つ教会の一人の信徒の研究発表であったが、彼は我らの東京聖書学校の存在を知らなかった。もっと、教団内で聖書学校をアピールする必要がある。 

2008年9月11日 (木)

東京聖書学校退修会(9月7日)

 週報短文をアップするのを忘れてました。遅ればせながら以下に。
   
 9月初旬、毎年東京聖書学校の退修会が行われる。今年は久しぶりに伊豆の天城山荘で開かれた。交通費の節約のため、教師たちも吉川と赤羽に集合して3台の車に分乗して行った。
 今回はウェスレーの説教を共に学ぶことになった。退修会としては初めてのことである。ウェスレーの説教は今日150程が残っているが、その内53が標準説教と呼ばれて特に重視されてきた。その中から今回は八つを選び、8回の霊修で学んだ。その外に二晩は学生たちの夏期伝道の報告と、将来の伝道牧会に備えて「先輩教師たちに聞く」という時間とした。このように退修会は学生と教師たちとの年に一度の貴重な学びと交わりの時である。
 ウェスレーの説教は後のメソジスト教会やホーリネス教会の形成に大きな影響を与えたものであるが、今日ではあまり読まれていないというのが本当のところではなかろうか。実際、学生たちばかりでなく、教師たちからも、初めて身を入れてウェスレーの説教を学んだという声が聞かれた。何しろ一つひとつの説教が長く、もしこのまま説教したら一時間ではとうてい終わらない。しかも内容が堅く高度で、とても今日の教会では耐えられないと思う。これは、ウェスレーが実際に行った説教ではなく、信徒教育のために初代メソジストたちに読ませたものであったと言われる。それにしてもこのようなレベルの高い説教を読むことが出来た信徒たちは偉かったと思う。初代メソジストの信徒たちの中で、教育を受けた者は僅かであり、ほとんどは一般の労働者や主婦であった。彼らが組会などの小グループで、リーダーが読むウェスレーの説教に懸命に耳を傾けている姿が目に浮かぶようだ。

 「読む人は成長する人」というのが指導者ウェスレーの言葉であり、信徒たちは師の指導に従って懸命に学んだ。初代メソジストほど聖書を良く理解して信じた人々はいなかったと言われる。このよき伝統を受け継いだのがメソジストや我らホーリネスであることを覚えたい。

2008年8月30日 (土)

北海道での五日間(8月31日)

  五日間の夏休みを頂いて北海道に行った。主たる目的は、義兄の病気見舞いと、まだ見たことのない知床を訪ねることであった。
 祈祷会その他でお祈り頂いた義兄は、一月に旭川の病院に見舞いに行ったときとは全く見違えるほどに元気になっており、本当に感謝なことであった。昨年の暮れには足の切断は止むなしというところまで行ったが、旭川にバイパス手術の名医がいることがわかり、札幌から旭川に転院してギリギリの状態で手術、年が明けてもう一方の足も手術して両方とも成功したのはほとんど奇蹟と言っても過言ではなかろう。しかし、指先から壊疽が始まっていたから、両足の六本の指は切断したが、親指が両方とも残ったのは幸いであった。今も歩行訓練などリハビリが続いているが、28日には退院の運びになり、それを確認して戻ってくることが出来た。お祈りくださった皆さんに心より感謝申し上げたい。

 知床は近年、世界遺産に登録されて観光客が増え、昔の素朴さが失われたとの声も聞かれた。札幌から女満別空港に飛び、そこから知床のウトロまでバスで二時間余りかかるが、空港から終点まで客は終始我々二人だけ、大型バス貸し切りで申し訳なかった。ウトロに一泊して翌日は知床の突端まで行く舟に乗ったが、さほどでもないというのが率直な印象だ。途中、海岸を二匹の小熊を引き連れて闊歩するヒグマを遠望し、ウトロではエゾシカも見かけたが、これは知床ならではの風景か。海は比較的穏やかだったが、途中から雨になって国後島なども全く見えなかった。 
 翌日は斜里から網走に出て、前から祈っていた森下師の開拓伝道の新しい拠点を見せて頂いた。突然九州から網走に飛び込んで五年目を迎えているが、この度ついに新興住宅街に教会らしい建物を購入し、新しい人たち、子どもたちも増えているという。M師はあいにく東京に出張中で留守だったが、幼児を連れて我々を迎えに来て下さった奥様の明るい笑顔が爽やかだった。主の祝福を共に祈って辞去した。

2008年8月23日 (土)

こころの友伝道全国大会(8月24日)

  標題の集会が仙台の茂庭荘で開かれた。以下に、東北中心で申し訳ないが、簡単な報告を記したい。

 今年は第55回であり、東北では久しぶり、仙台では初めてとのことであった。地元の教会として出来る奉仕はさせていただこうと心に決めたが、どんな大会になるのか蓋を開けてみないと分からない不安もあった。
 大会初日は全国から(遠く沖縄からも)兄弟姉妹が次々に到着し、私たちは最後列に座ったが、後から来た人は席が見つからないほどであった。開会礼拝から講演Ⅰ、Ⅱとプログラムは進んだ(この道ベテランのI師、F師)。夜は特別講演を前に東北アワーということで、まず、東北支部長の福島純雄師に歓迎の挨拶をいただき、続いて当教会の十数名の兄姉の合唱で聖歌2曲、そしてS姉のオカリナ演奏2曲、「ブラボー」の叫びに応えてもう一曲、和やかな一時となった。
 今大会の主講師は牧師であり臨床心理士の藤崎義宣師、今日までの経験から様々のケースを織り交ぜながら語られた。講演は1日目夜と2日目午前との2回であった。
 分団は10の主題に別れ、高齢者や青少年の問題から今日的なIT伝道まで中味は豊富であった。私は求道者をいかに獲得するかという分団に出席したが、各教会の取り組みなどを伺った。午後の自由時間には、青葉城趾や博物館の見学を希望する方々をそれぞれ車で案内して、最後は皆さんが当教会に集合し、「立派な会堂ですね」と感嘆しきりだった。
 二日目の夜は「栄光と喜び」。当教会のU姉他2名の兄姉が証しされた。U姉は家族伝道について話された。説教は、名古屋神召教会の内村サムエル師、最後に恵みの座に進み出て共に祈った。証しは三日目の午前にもあり、そこでも三名の兄姉が証しした。早天祈祷会は東北が担当して、福島師と静江牧師の奨励だった。
 事務局は小松川教会や新宿西教会の信徒の方々が担当してくださり感謝だったが、高齢化してきていることは否めない。この働きも次世代の方々にバトンタッチする時を迎えている。     

2008年8月18日 (月)

菊池 譲牧師に会う(8月17日)

  菊地まさ姉の葬儀で、菊池譲牧師に初めてお会いして、親しく語り合うことが出来た。お名前は以前からよく存じ上げていたが、会うチャンスがなかったのだ。譲師は菊地家の長男として育ち、大学卒業後上京して就職したが、さらに青山学院のキリスト教学科に学び、牧師になった。同学科は1970年代前半に廃止されたが、師が学んだのは1960年代であろう。私も若い頃から愛読したのは青山学院の教授たちが共同で執筆した「キリスト教概論」で、譲師も浅野順一や野呂芳男らに学んだはずである。
 その頃は大学紛争が世界各地で起こり、東大の安田講堂が学生たちに占拠されたのは1968年であった。神学校やキリスト教学科も決して安泰ではなかった。そう言う時代に聖書や神学を学びながら、譲師は何を考えておられたのか、どうして山谷のどや街に入っていき、日雇いの労働者と生活を共にしながら伝道を始められたのか、その辺をもう少し聞きたかったが、時間がなかった。いつか、この教会にお招きして皆でお話しを伺いたいと思う。
 最近は山谷もすっかり高齢化して、かつては日雇い労働者の街だったが、今は生活保護所帯が五千もあるという。まさに格差社会の象徴のような現象だ。譲師は長いことマリア食堂を経営し、安いお弁当を彼らに提供しているが、それを買いに来る人が増えてとても需要に追いつけない。今は、一人一個という制限を設けてやりくりしているという。前任の教会の近くにバプテスト教会のI師がおり、よくマリア食堂にボランティアで奉仕に行っておられた。私たちの副牧だったK師も時々行っていた。私も一度くらいは行くべきだったが、ついに一度も伺わなかったことを、申し訳なく思う。
 青葉荘教会では、毎年クリスマスに譲師の働きを覚えてマリア食堂に献金を送ってきたが、今回初めて酒田暁星教会に応援伝道に行ったように、代表でも送って、譲師を励ますことはどうだろうか。父上の正太郎兄の面影を思い起こしてフトそう思った。

2008年8月11日 (月)

聖会の恵み(8月10日)

  第35回東北夏期聖会は恵みのうちに終わり、祈祷会では恵みの分かち合いがなされている。一回の祈祷会では終わらず、続けて分かち合いがなされる予定である。
 今回は多くの面で恵まれたと言えるのではなかろうか。まず、天候に恵まれたこと、また、会場がすばらしかったこと、しかもそのホテルの最上階で岩手山や八幡平の美しい山並みと緑に包まれて集会が持たれたこと、そして何よりも講師の田中敬康師の老練なメッセージにホーリネスの恵みを満喫したことである。先生も私たちとの交わりを殊の外喜んで下さった。はじめ心配したことは、東北の群の教会の現状が厳しく、参加者が少ないという見通しだったことだ。これは祈る他はない。すべてをご存じの神は今年私たちに与えられた聖句のように、万事を益として下さることを信じて聖会に臨んだ。結果はどうであったか。思いがけず、富谷教会から辺見先生をはじめ4名も参加して下さったこと、当教会でも初参加の方が何名か起こされ、かつてない人数で参加できたことなど、「数えてみよ、主の恵み」の賛美の通り、多くの主の恵みを味わうことが出来た。
 皆さんの感想の中に、三人の証し者の証しに恵まれたという声が大きかった。三者三様でそれぞれに味わいがあった。分団では講師を独り占めしたところがあり、その分団はさながらもう一つの聖会のようだったとのこと。たまにはそういう分団もあってもよいのではないか。
 さて、今後、どのように聖会を継続していくか、諸教会の厳しい情況を聞くと、簡単ではないように感じる。しかし、それだけに聖会の大切さを皆が意識して、聖会のためにもっと祈らねばならない。
「…毎週教会病院に通い、折々に聖会病院に入院して、かろうじて我らは健康を保つことが出来る」と言った先輩牧師の言葉は至言である。これは旧約聖書の昔からそうであって、旧約でも神が安息日や聖会を定めておられることを忘れてはならない。

2008年8月 2日 (土)

ファミリーキャンプ(8月3日)

  ファミリーキャンプは7月25日、26日、県立「蔵王自然の家」で開かれました。去る岩手・宮城の大地震のために花山の施設が使えなくなり、急きょ日時と場所を変更しました。そこで、参加を予定していた人も参加できなくなるなど困難もありましたが、全体に守られて感謝でした。
 天候は雨模様で、初日夜のキャンプファイアーができず、子どもたちはちょっとがっかり。でも、室内でキャンドルサービスをして森田先生のお話を聞き、その後、皆でゲームを楽しみました。
 翌日も小雨、屋外の集会は出来ず、集会はみなプレールームでした。それでも子どもたちは「小鳥の家」の見学に出掛け、また、近所の小川で川遊びもしたとのこと。
 大人の方は、第一日目、子どもたちが小石の制作をしているときに別室でM兄の司会で教会のビジョンについて話し合いました。N姉とS兄の発題の後、自由に意見交換をしました。時間が短かったので十分な話し合いはできませんでしたが、二日目にも持ち越して、子どもたちが外に出掛けた後、引き続き自由に語り合いました。普段はできない話を8人ほどで突っ込んでできたのは良かったと思います。特に、主日礼拝後、もう少し交わりの時が欲しい、新しい方を温かく迎えるために受け入れ態勢を整える必要がある、ロビーに語り合うコーナーができないか、時間のある方は二階でコーヒーを飲んでから帰るのはどうか、そのために喜んで奉仕しましょうという申し出もあり、話が盛り上がりました。
 施設の近くに蔵王ハイツがあり、そこに場所を移し、温泉に入ったり、おにぎりを食べたり、リラックスした時も持ちました。
 ビジョンについては、100周年委員会が引き継いで皆の意見を集約していくことになりました。全体として参加者は昨年より少なかったが、大人にも子供にも楽しい有益な時であったことを感謝します。

2008年7月27日 (日)

地震、家の教会、愛(7月27日)

  このところ、地震が頻発しますが、去る5月に中国四川省で起きた大地震は全く想像を超えた被害をもたらしたようです。新聞では死者が10万人と報道されましたが、実際は40万人と言われます。30万人は戸籍を持たない難民で、10万人が戸籍のある人たちらしい。政府の救援も奥地までは届かず、実態はまだ分からないところがあるようです。被災地に率先して救援の手を差し伸べたのが家の教会の兄弟姉妹たちと聞きました。彼らは、食糧や水その他の物資を運び、病院では傷ついた人々の介抱や(医者や看護士、医療品は全く足りない)患者の衣服の洗濯などを黙々としているそうです。自分のことを忘れて、苦しんでいる人のためにそうせざるを得ないという彼らの生き様が、被災地の注目を集めているとのこと、そのようにして家の教会は拡がっていったのでしょう。かつてネパールに行った岩村昇医師が「共に生きるために」というネパールの村人の証しをされたのを思い起こしますが、経済大国になるほど、「共に生きる」ことを忘れてしまうのでしょうか。この頃頻発する無差別殺人とその意味するところは、地震よりも怖いというべきかもしれません。

 先日、東北教役者会で聴いた話では、人間の脳が成長する三歳くらいまでに親や家族との触れ合いが薄く、また幼いときにパソコンやテレビの映像で育った子供は、脳が健全に生育しないとのことです。脳というより、我々は心と言いたいですが、心をどこかに置き忘れて、子供の欲しがる物は何でも与え、愛の乏しい家庭、愛に遠い世界になってきたのではないでしょうか。
 地震の話から、話題が逸れてしまいましたが、聖書は「最も大いなるものは、愛である」と言っています。中国の兄弟姉妹は危急の中で愛を実践しており、そこに教会の力が発揮されていると思います。自分が一番大切で、自分が痛まない程度に誰かを愛するというのが本当の愛と言えるのかどうか、もう一度考えさせられました。       

2008年7月21日 (月)

ビジョンを求めてⅢ(7月20日)

  私は昨年、はじめて東北教役者会に参加した。これは年一回、超教派の東北の牧師達が集まる研修会で、今年は第41回目。昨年はとても良かったので、今年は若い教師にも声を掛けたが、都合があって最終的には森田師と共に参加できて感謝だった(教団からは我々だけ)。
 7月14日の昼から翌15日午後3時までの短い日程ながら、中味は濃かった。幼児教育に長く関わり今も現役の金田昭三兄の興味深い講演、老人施設の理事長その他の要職を歴任して来られた渋谷敬一牧師の老人問題に関する講演など、教職・信徒共に関心のある課題だった。しかし、中でも分科会で四人の牧師から開拓伝道・信仰継承等の発題があり、私が一番関心を抱いたのは、大衡村の拡大宣教学院長・永井信義師のお話しだった。
 それは「アルファ・コース」という伝道の方法で、30年ほど前に英国で始まり、現在163ヶ国で行われているとのこと、情報が瞬く間に拡がり共有される現代ならではのことだ。日本で最初に「アルファ・カンファレンス」が開かれたのは6年前、そして今全国で200ほどの教会でこの伝道が行われているとのこと。永井牧師は、今春からこの働きの日本代表になった。
 私が関心を抱いた理由は、15年前に日本教会成長研修所の研修生の一人に選ばれ、そこでの学び、さらに韓国やアメリカのセミナーにも夫婦で参加して学んだが結局実践するに至らなかった教会形成の理論と方法とに共通するところが多いと直感したからだ。もちろん、永井先生のお話を一度聞いただけで分かったと言うわけにはいかないが、これなら私たち日本の教会でもやれるのではないかということを強く感じた。
 折から、将来のビジョンを求めて祈っていたので、この講演が特に心に響いたのかも知れない。さらに伝道委員会でも教会の伝道について共に祈り、協議しながら、私たちの教会にふさわしいあり方を求めていきたい。皆様にもお祈りをお願いする。 

2008年7月14日 (月)

信仰の継承(7月13日)

  祈祷会で司会者から信仰の継承について感話がありました。これは私たちの教会でも最大の課題のひとつです。このことについて、ホーリネス誌七月号の最後のページに、深谷路都姉の一文が出ています。路都さんは、深谷牧師の次女で三人兄妹の一番下のお子さんですが、今は大学生になりました。私たちは生まれたときから知っているので、「こんな文章を書くまでに成長したのだ」と感慨深いものがあります。路都さんは「わたしの好きな讃美」として聖歌344「世にもとうとく清きふみあり」を挙げて、お母さんの美歌子牧師のことを書いているのですが、それがとても傑作です。まさにお母さんの路都さんに対する姿がほうふつとしてきます。

 まず、厳しい母親像です。信仰のことに関しては一歩の妥協もありません。彼女の文章を引用しますと「…今現在、私が教会につながって信仰を保っているのは、神様の憐れみと、そして母である美歌子牧師の、(時に乱暴と言って差し支えないほどの)切実な祈りによるものに他なりません。以前、美歌子牧師に『お母さんは、どうしてそんなに熱心に私たちに伝道しようとするの?』と、聞いたとき、母は『七重おばあちゃん(祖母)が亡くなる時、《子どもたちを絶対に信仰に導きなさい》と言われたんだよ』と答えました。」

 路都さんは、とてもパワーのある子供で、あの力が神さまのために用いられたらきっと何かをする人と信じています。それだけに、お母さんの祈りは路都さんのためにどんなに篤く捧げられたでしょう。彼女のためばかりでなく、三人のお子さんのために祈らぬ日は一日もなかったでしょう。
 今は、親も子どもたちに遠慮があって、自由にさせるというケースが多いようですが、果たしてそれでよいかどうか美歌子牧師のお考えも聞いてみたいものですね。もっとも、路都さんによれば、母は鞭で、父は飴だったそうですから、その絶妙のコンビで子どもたちを育てられたのでしょう。  

2008年7月 6日 (日)

ビジョンを求めてⅡ(7月6日)

  一日から三日まで教職アシュラムに出席した。昨年に続いて二度目の参加である。今回は参加者がやや少なく、13名に留まった。しかし、落ち着いた良い集いで、思いがけない出会いもあった。
 今回私は、来年が百周年の記念の年でもあり、また、教会としても個人としても将来へのヴィジョンを求めているので、それを静かに祈り求めたいというニードを持って参加した。
 プログラムでは、静聴の時間と恵みの分かち合いが中心であるが、今回はイザヤ書42章以下を各自が読み静聴することになった。それぞれが示されたみ言葉を証しして祈り合ったが、私に最終的に示されたのは55章の次のみ言葉であった。 
 
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり 
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように 
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ 
わたしが与えた使命を必ず果たす。 (8~10節)
              
 私たちがいろいろ計画するより、大事なのは神の思いであり、神の道である。だから、私たちとしては示されたところに従順に従う信仰が必要である。開拓伝道であれ、その外の道であれ、「これが道だ」と示されたら、信仰を持って従いたい。  

2008年6月29日 (日)

ビジョンを求めて(6月29日)

  教会創立百周年記念事業委員会では、記念誌発行の準備を進める中で、教会の将来へのビジョンを求めて苦しんでいる。将来、この教会が創立以来のホーリネス信仰を堅持して、祈りと伝道に励むことは言うまでもないことだが、もう少し具体的な将来像を描けないかということである。
 私見を少しばかり述べれば、当教会の恵まれている点はいくつもあるが、及ばなかったことを二つだけ挙げれば、伝道者と伝道所を産み出すことである。伝道者については、昔は、小田島嘉久、飯淵よし、中村彊、中島誠、中島豊、本間義信の各師など、指折り数えることができるが、ここ40年はいないと思う。後任に、当教会出身の牧師を迎えたいと思っても、そういう器が見当たらないのである。これは寂しいことではないか。何とか、献身者を産み出すように皆で祈り考えねばならない。東京聖書学校を、献金をもって支えると共に、献身者も送りたいものだ。
第2に、伝道所のことであるが、先に「いこい」の巻頭言に富谷伝道について記した。誤解のないようにここに重ねて記すが、伝道委員会では一年近く話し合って、当分は現状維持で行くのが妥当であるという結論に達し、それを役員会に答申した。役員会も教会総会もそれを承認したのである。
 私が月報に記したのは、将来のことである。将来、この教会が開拓伝道と取り組もうという決断をするときが来たら、富谷に再挑戦するのはどうだろうかと記したのである。その場合は、現在の辺見牧師の富谷教会とは別に、よい建物を見つけて教会学校や礼拝をする。そして、教会の形ができるまで私たちがバックアップする。伝道師を送るとか、必要ならば私たちが富谷に行くことも考えていると記したのである。これらのことは青葉荘教会にとって大きな事であるから、牧師ひとりの考えではもちろんだめで、役員会をはじめ皆で祈って考える必要がある。しかし、伝道所を産み出すためには私もそれ位の覚悟はあることを記して一石を投じたのである。

2008年6月23日 (月)

聖書と地震(6月22日)

  聖書の舞台も地震の起こる所です。日本では昔から「地震、雷、火事、…」と言われて、恐ろしいことのトップに挙げられていますが、聖書ではそれほどではなく、地震のことはあまり出てきません。旧約でも何度か地震に言及されている程度ですが、アモス書1・1には「あの地震の二年前に」という言葉が見られ、B・C八世紀に「あの地震」と言われるような大地震があったことが伺われる。
 新約では大事な場面に地震が出てくる。有名なのは使徒言行録16章で、パウロとシラスがフィリピの牢に投獄されたとき、夜中に大地震が起きて牢の戸がみな開いたとある。その出来事が、看守一家の救いに繋がった。
 主イエスが十字架につけられたときも、復活したときも地震が起きたとマタイは記している(27・51、28・2)。主イエスの十字架と復活は、歴史を二分する出来事であるが、その時に天変地異が起きたと聖書は告げている。他の福音書には地震は出ていないが、全地が暗くなったと記されている。
 もう一つ、三つの福音書に共通に出てくる大事な言葉は次の言葉である。
「 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。… しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。…
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ13・7~13、他)世の終わりの予兆として起こる出来事のひとつが地震だ。自然界には異変が、社会には異常な出来事が起こるという。
地震と共に、主の再臨への備えはどうか。

2008年6月15日 (日)

小山宗祐師の殉教(6月15日)

  六月はホ群の弾圧受難を覚える月で、諸教会で記念礼拝や聖会が開かれる。ホーリネス誌六月号もその特集である。ところが、『信徒の友』七月号に「犠牲となった小山宗祐牧師補の獄死」という一文が載った。これは元函館聖教会の会員で、同教会の小山師の獄死の知らせを受けて遺体を引き取りに行った一人の姉妹(菊池すみ)の証しである。まだ、そういう方がご健在であると知って驚いた。

 小山師の獄死については、昔、母教会の伊藤馨師からも聞いた。当時、伊藤師は北海教区長で、まだ青年牧師補であった小山師の裁判の傍聴のために函館に来ていた。ところが、獄中で自殺したから遺体を引き取るようにと連絡を受け、驚いて駆けつけた。菊池すみ姉も同行したが、「ご遺体は首ががっくりと折れ、体中に紫斑、血糊があり、拘置所の言う縊死による自殺とはとても考えられない状態でしたが、抗議はできない時代でした」と記しておられる。
 もう一人、ご遺体を引き取りに行った冨永リン姉の手記には「夕方に小山先生のお父様がお着きになりました。取りあえず私の家へご遺体をお運び申し上げ…小さな講堂をお貸し下さいましたので、そこで葬儀を行うことになりました。お父様、伊藤先生、教会の信者五、六名、病院の方患者さん約三十名で前夜式が行われ、翌朝の葬儀も大体そのようでございました。焼場へ行ってお父様、伊藤先生、巻畑千代姉、私と四人でお骨を拾い、ようやく父上様のお手に抱かれなさいました。お父様はこんな悲しい事のために、暖かい京都から寒い北海道へ、未決監におられたときに一度、そしてこの時にまた長い旅をなさいました。…」(ホ群文書部発行、弾圧受難証し集「その時わたしは」より)
 もう一冊、小さいながら貴重な資料となった「昭和の宗教弾圧」(米田豊、高山慶喜共著)がある。この本を取り出してみたら、内表紙に米田師に書いて頂いた同師特愛の一句が見つかった。
 「過去を思へば感謝、現在に於ては平安、将来に対しては信頼あるのみ」
    昭和四十年八月七日                                 米田 豊

2008年6月 8日 (日)

異文化宣教(6月8日)

  小川文子先生をお迎えしてメッセージを聴くことが出来ることを感謝する。小川先生は早くからカンボジア宣教に使命を感じ、いよいよその道に進もうとしておられる。一口に宣教師と言っても、海外に住む同胞に宣教するために行く場合があり、我らの教団ではそのケースが多い。私たちが香港に6年間滞在したのもそうだった。
 しかし、小川先生の場合はカンボジアの人々に福音を伝えるために行こうとしており、これを異文化宣教という。福音系の教団からはアジアやアフリカに遣わされている宣教師もいるが、絶対数としてはさほど多くはない。ホ群からは横山基生・好江両師がイギリスで奉仕されたが、両師は英国と日本の教会の架け橋となりたいというビジョンをもって行かれた。小川先生も横山師が所属したOMFという宣教団体の宣教師としてカンボジアに行こうとしている。7月からニュージーランドで英語の研修、さらに宣教師としての訓練をシンガポールで受けてから現地に入ることになる。香港やシンガポールは、アジアでも有数の近代的大都市だが、カンボジアは日本とはおよそ文化的にも経済的にも異なった国だ。ポルポト政権下での虐殺の悲劇も、まだまだ容易に記憶から拭い去ることは出来ない。今なお多くの人たち、子どもたちが、地雷の犠牲になっている。そういう国へ宣教に旅立とうとしているのだから、私たちも祈りをもって師を支えたいと思う。
 ホ群からも異文化宣教に送り出すことは久しくなかったことである。「受けるより、与える方が幸い」のお言葉の通り、ホ群としても小川師を通して多くを教えられることになるだろう。「小川文子先生を支える会」もスタートしているので、教会でも個人でも加入して頂きたいと願っている。
 先生は聖書学校でも異色なほど逞しい人だった。きっと過酷な環境にも主を見上げて耐えていくことができるだろう。「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。」アーメン

2008年5月31日 (土)

聖餐論争(6月1日)

  東北教区総会が終わった。今回の総会で一番大きな課題は聖餐に関することだった。それは東北教区だけでなく、教団全体の問題になっている。現に、ある教区ではこの問題に関して教団三役の対応に納得できないとして教区総会への教団問安使の受け入れを拒否した。
 このように書いても、何のことかお分かりにならないだろう。直接の契機は教団常議員の一人であるK師が御自分の教会で未受洗者への配餐を許している(フリー聖餐と呼ばれている)。そのことを常議員会でも公言したので、常議員会はK師に教憲教規に従ってそれを止めるように、それに従うことが出来なければ教団教師を退任するよう勧告決議した。この常議員会の態度を不満として、複数の教区から要望書等が出されている。そのような渦中で、全国各地の教区総会が開催された。

 この事に関連して、東北教区の宣教共同研究所は「未受洗者への配餐について」の一文を教区総会議案・報告書に載せた。使徒以来、2000年の伝統に立つ聖餐式のやり方を軽々しく変えるなということ、これに対して異論が出て、建議案も出され、これに関する議論が今総会の中心になったということである。

 今回の議論を一通り聞いた感想を述べれば、この問題の根は深いことを感じる。聖餐論だけでなく、教会論でも教団の諸教会には一致がない。教団は多くの教派が合同してできた教会だから、神学的、教会的伝統が違う。その旧教派の違いが、今回の聖餐論争に露わに出たということである。
 この議論が果たして生産的な結果を産むかどうかは不明である。お互いが自説を主張するだけではいつまでも平行線で、「それでは分かれよう」という結果になりかねない。しかし、この教団の現状を外側から客観的に見れば、なぜそんなことで争うのか不思議に思うだろう。こんなことで内輪争いすること自体が、教会存亡の危機だと言われるだろう。私もホ群の分裂の痛手を経験しているので、これ以上の分裂はもうたくさんだという気持は強い。      

2008年5月25日 (日)

富谷伝道について

 前号の続きは月報の巻頭言に書きましたので、ここに載せます。  
              
  昨年度、伝道委員会では富谷伝道について約一年をかけて話し合ってきた。富谷教会のH牧師より、青葉荘教会が主体となって伝道を進めてくれないかと依頼を受けたためである。この申し出を受けて役員会は、伝道委員会にその検討を委ねた。それを受けて伝道委員会では、過去の富谷伝道の経緯について調べるなど種々検討した結果、にわかに辺見牧師の依頼を受け入れず、しばらく現状維持を続けるという結論を出した。すなわち、当面は伝道委員会の中の富谷伝道担当の兄姉が中心となって、従来通りの月一回の礼拝応援を続けるということである。そして、今後もH牧師と富谷教会の兄姉たちとよい交わりを続けていきたいと願っている。

  当教会と富谷伝道との関係は深い。昭和初年にレスキューミッションという伝道団体が仙台周辺を回って伝道し、そこに我らの群の先輩である安倍豊造、山崎亭治両師が加わり、富谷にも伝道した。その後、同ミッションが伝道から手を引いたので、それを我らの群が引き継いだのは自然の流れであったと思う。そういう中で、内ヶ崎たまき姉も富谷教会で安倍豊造師より受洗している(昭和16年)。
 戦後、中島代作、豊両師時代も当教会の一肢として伝道は続けられてきた。それを引き継いでH牧師が富谷伝道を続けて今日に至った。
 そこで、将来は当教会が再び富谷伝道に再挑戦し、伝道師を送り込んで当教会の伝道地として積極的に伝道を進めるのは如何であろうか。私たちも後任牧師を迎えた暁には、主の御心ならば富谷に住んで腰を据えて伝道することも考えている。それは、当教会が以前から願っていた開拓伝道に取り組むことにもなると思う。なぜ富谷なのかと言えば、それは前述の通り富谷伝道の関わりは長く、中島豊・和子両牧師はじめ、多くの兄姉がこの地の伝道のために労苦し、種が蒔かれ、何よりも祈りが積まれてきた所だからである。他の新しい場所を探すより「富谷で」ということが、一番自然で神の御心にかなっているのではないであろうか。
 しかし、開拓伝道は決して容易ではない。宣教二世紀を迎えようとするこの時に、本腰を入れて取り組む覚悟があるかどうかである。

2008年5月19日 (月)

開拓伝道

 短文を更新していないので、秩父の山を見ながら、考えたことを一筆してみましょう。
私たちの教会は、来年伝道開始100周年を迎えます。一区切りという節目の時です。さて、宣教2世紀に入るに当たって、教会としてどのように伝道に取り組むか。また、将来への展望はどうか。去る伝道セミナーでも、教会の内向きを警告されました。確かにそうだと思います。
そこで、外へ向かってという場合、信徒の一人一人が隣人への伝道に向かうことは大事なことですが、教会としてはどうかと問われたとき、100年も経って、未だに伝道所も子教会も産み出さないのは残念なことです。むろん、早くからその願いを持って、富谷の伝道に取り組みましたが、諸般の事情から現在はH牧師の伝道に協力している形を取っています。しかし、富谷伝道には戦前から関わってきているのです。

 さて、我々も若くはないので、教会としては後任を迎える態勢を同時に整えていかねばならないという大事な課題を抱えています。そこで、一つの考えとして、3年後に後任者を迎えるとして、それまでに伝道所の開設の準備をし、後任牧師を迎えると同時に私たちは伝道所へ移る。これが一つの案。もう一つは、伝道所もこの教会の伝道の拠点とし、後任牧師を迎えても我々も教会に残り、複数伝道牧会態勢で伝道を進めていく。これは閉鎖的な意識の強い日本の教会では、なかなかうまくいかない試みですが、チャレンジしてみる価値はあるでしょう。幸い我々は年金生活者になるので、邪魔にならない限り教会に利用してもらうのはどうだろうか。
 秩父の山を見ながら、考えたことを率直に書いてみました。

2008年5月13日 (火)

ビジネスマンの視点から 

 多忙で更新を忘れていました。古びた短文でなく、昨日今日の新鮮な報告を載せます。
  
 12日、13日の二日間に亘って仙台圏宣教協力会主催の伝道セミナーが開かれた。講師は、姫井雅夫師と三谷康人氏であった。三谷氏はビジネスマンとして45年のキャリアーを持ち、その視点から現在の日本の教会を見て、伝道に対する助言を与えてくださった。それが私たちには新鮮であった。一方、姫井師は長く総動員伝道の総主事として教派を超えて全国の諸教会を助け、また見てきた方だが、今回はご自身が牧会する教団赤坂教会での試みを率直に分かち合ってくださり、参考になった。赤坂教会も百年を超える歴史を持つ都心の教会として、私たちの教会との共通点も多いと思った。
 特に興味深く感じたのは、お二人がコンビを組んで講演してくださったことで、牧師の視点とビジネスマンの視点の相違点、共通点が見えて、考えさせられるところが多かった。

 三谷氏は、日本の教会の弱点は内向きであること、小さく固まってその枠を破れないことであると言われた。また、教会の使命は伝道であり、その伝道とは教会の外に愛を実践していくことによって可能になると言われた。すなわち、神が私たちに与えておられる使命は、愛と伝道に集約されること、また、私たちが喜びに満たされているときに、伝道は自然に進んでいく。そのためには、私たちが自己完結的な内向きの信者でなく、神中心的な外向きの信者になることが大事だと強調された。
 また、日本の社会が直面している危機(年金や老人医療に象徴される)と、教会の現状から将来を展望して、もっと危機感の自覚が必要ではないかと指摘された。これらのことを、御自分の体験を交え、また豊富な実例を引きながら、説得力ある講演だったが、「ピンチはチャンスである」、今こそ、伝道のチャンスが来ている。共通の使命に立てば、方法は無限にあり、神の意志を実行しようとするなら、神が味方なのだから絶対に成功する。諦めないで挑戦することだと力強く励ましてくださった。 

2008年4月28日 (月)

役員選挙について(4月27日)

 このところ、面白くない短文で恐縮です。昨日のNHK深夜便「こころの時代」の五木寛之さんの話を聞いていたら、書くことは厳しい、身を削るようにして書いているとのお話でした。プロともなると、そういうものかと感じ入りました。生意気を言えば、説教には我々も身を削るように、苦労しています。
しかし、週報短文は、私の趣味のようなものですから、どうぞお許し下さい。以下、昨日の短文の一部をアップします。

 教会総会が終わった。すでに2008年度は始まっているが、総会が終わらないと、新年度がスタートしたという気持にならない。今回の、大きな改革は役員選挙のやり方だった。二月に懇談会を開いて、話し合いもしてきたから、特に驚きはなかったと思うが、このやり方に慣れるまで少し時間がかかりそうだ。
 投票用紙に沢山の名前があるので、選ぶときに迷われたかも知れないが、開票の結果は当選の上位4名まで20票以上が入っているから、有効投票(52)の過半数には達しないが、三分の一以上には達している。これは従来の選挙結果と比べてもそんなに違わない。今回のやり方の妥当性を裏付けてくれたと受け止めている。

 役員を務めると教会の全体が見えてくる。これは役員を経験した人の率直な感想であろう。それは大事なことである。牧師だけではなく、少なくとも教会の主だった人々は教会の全体像を把握していなければならない。また、先輩の役員から教会の伝統を学び、それをまた次の世代に伝えていく責任もある。私たちがこの教会に招かれた4年前から75歳を越えて役員を降りた方は二人、さらにその先輩たちもかつては何年も役員を務めて下さった。そういう先輩たちの信仰をしっかり受け継いでいくことも役員の大事な務めである。これからも、現在の役員から次の世代の兄姉に次第に代わって行くであろう。その交替が無理なくなされていくような役員選挙でなければならない。

2008年4月21日 (月)

讃美歌、聖歌について(4月20日)

 ホーリネス教会は、昔は「リバイバル聖歌」という小さな聖歌集一冊を用いていました。礼拝、祈祷会、伝道会、聖会でも、すべてそれ一冊でした。しかし、1941年に日本キリスト教団に統合されて、教団の集会では讃美歌が用いられるので、次第に讃美歌も歌われるようになりました。
 リバイバル聖歌は、曲数も少なく如何にも不十分なものでしたから、1958年に中田羽後師が編纂して発行されたのが現在私たちが使用している聖歌です。
 ところが、2001年に聖歌が廃刊になりました。それは日本福音連盟から新しく「新聖歌」が発刊されたからです。新聖歌は聖歌の改訂版ではなく、新しい聖歌集と言うべきです。そこで、従来の聖歌に慣れてきた教会としては、新聖歌に変更すべきか否かで迷いました。当教会も変更しないで今まで従来の聖歌を使用してきました。しかし、これはすでに廃刊したものですから、いつまでも使うことには問題があります。
 新聖歌とは別に、日本教会音楽研究会・聖歌の友社から「聖歌」(総合版)という新しい聖歌が2002年に発行されました。これは従来の聖歌を殆ど網羅して、さらに新しい曲を取り入れたものです。従来の聖歌を歌い続けるならば、これに切り換えるのが自然であろうと思います。
 他に、讃美歌のことがあります。従来の讃美歌もなお多くの教会で歌われていますが、教団の教会では、次第に讃美歌21に切り替わってきました。この讃美歌にも実は、問題があります。特に、我々が讃美歌の中で歌い続けてきた聖歌に類する曲は、ほとんど讃美歌21には採用されていません。しかし、従来の讃美歌の歌詞も古く感じられ、若い人々は理解も難しいでしょう。それでも、従来の讃美歌に固執するかどうか(歌詞を替えたくないならそうする他ない)、皆さんのご意見も伺いたいと思います。

2008年4月14日 (月)

新年度の計画(4月13日)

 教会総会が来週に迫り、その準備に追われています。この短文もそれに関連して、一般には面白くないですが、お許しを頂いて掲載することにします。  
 
 教会全体のことを言えば、組織を見直して再編する予定です。各委員会は、全員参加の教会形成を目指して皆さんが自主的に希望の委員会に所属して奉仕していますが、うまく機能していない委員会もあり、委員会の奉仕内容も再確認、再検討する必要があるでしょう。一人で何役もとなると、無理が生じるので、できるだけ重点的に奉仕部門を絞るのがよいと思います。
 昨年度はイベントが多く、恵まれた反面、疲れたという声もあるので、今年度は控え目にします。来年度は創立百周年の記念のイベントが多くなりますので、今年は準備の年として位置づけます。
 特伝は十月に絞り、他に特別礼拝が何度か行われる予定です。また、新しい試みとして、夏に応援伝道を計画しています。酒田暁星教会(山本博之師)を予定しています。
 建物設備関係では、冷暖房が大きな課題になっています。暖房は床暖房とパネルヒーター式で行っていますが、肝心のボイラーが時々不調になります。冷房は部分的に冷やすことは不可能との意見もありますが、業者の説明では、礼拝堂の真ん中付近の数列を冷やすことも不可能ではないとのことです。夏の気温が徐々に上がっているように見受けられるので、部分的にでも冷やすことも検討の余地はあると思います。
 これらのことは、礼拝を少しでもよい環境で捧げたいという願いですが、もちろん重要なのは礼拝の中味です。み言葉と賛美と祈りのなかで、生ける主に出会う礼拝となるように祈りましょう。 

2008年4月 5日 (土)

ホ群年会のひとこま(4月6日)

  ホーリネスの群の年会は、今年は越谷の新しい会場で行われた。初日は強風で武蔵野線が止まり、年会に先立って毎年開かれるセミナーに出席しようとした方々は足止めを食ってしまった。聖書学校も武蔵野線吉川にあるが、同線は風や雨に弱いのが弱点である。
 セミナーは渡辺正男師の礼拝についての講演で、有益であった。

 今年の年会の主題は「ホ群教会の連帯」―福音にふさわしく歩むーで、フィリピ書1、2章から語られた。八束委員長は、「ただ福音にふさわしく歩む」という一事に集中することを奨められたが、翌日の派遣式の聖会で私は、ここ30年余りのホ群の歩み、特に分裂に至った経緯を少し取り上げた。これは私たち五人に託されたホ群の歴史編纂で最大の課題になっているところで、まだ歴史が定まったとは言い難い部分だが、タブーのように誰も触れようとしないことに疑問を感じ、敢えて語らせて頂いた。説教後に幾人かの方から感謝されたが、しかし、説教で取り上げることが適当であったかどうか、特に「それはあなたの主観的な判断ではないか」と率直に言って下さった方もあり、難しさを感じた。自分では客観的に語ったつもりでも、聴く側では、特にその困難な場面を通ってきた者には様々な思いがあり、判断の違いもある。未だに癒やされていないところもある。また、触れて欲しくない所もある。懇談会やセミナーならば、率直な意見交換も出来るが、説教では一方的に語られるので反論できない。それだけに、慎重を要すると改めて思った。
 しかし、困難を承知で、あえて一石を投じたつもりである。あれだけの痛みを経験しながら、何事もなかったように蓋をしておくことは出来ないし、そのために歴史編纂をしてきたといっても過言ではないのだから、他の方々にもまた違った観点から取り上げて欲しいと思っている。特に若い方々はどのように感じたか、聞いてみたい気がする。  

2008年3月30日 (日)

出会い

 週報短文を忘れていて、30分でキンロー先生の一文を借りて書き上げたたので、ここには月報の巻頭言を載せることにします。
  
 春は別れと出会いの季節です。今春も若い兄姉たちがこの地を離れて新しい地に旅立っていきました。その地には新しい出会いが待っていることでしょう。私たちもまた、ここで新しい友を迎えることを期待しています。
 「人生は出会いで決まる」という言葉がありますが、実際、誰と出会うか、何に出会うかによって私たちの人生が大きく左右されることは間違いありません。皆さんの人生における最大の出会いは何だったでしょうか。
 ヨハネ一章には主イエスに出会った最初の弟子達のことが興味深く記されています。彼らにとってそれは決定的な出会いでした。私たちはどうでしょうか。主イエスとの出会いが生涯を決めたと言い得るでしょうか。私たちクリスチャンホームに育った者は、主イエスに出会ったという意識が持ちにくいのですが、多くの場合、まず誰かとの出会いがあって、それが契機となり主イエスとの出会いに至るのが普通であると思います。自分で聖書を読んで主に出会ったという人は少ないでしょう。

 「主イエスとの出会い」という場合、それは深められていくものではないでしょうか。例えば、み言葉との出会いと言うことがあります。東京聖書学校の入学試験の面接では、必ず召命感が問われますが、それはみ言葉を握っているか否かが鍵になるでしょう。そのみ言葉の背後に、実は生ける主ご自身がおられるのです。それはみ言葉ばかりではなく、人や出来事との出会いにおいても同様です。背後におられる主ご自身に気づくかどうかということです。いつまでも人を見ているのではなく、その背後に生きて働かれる主イエスご自身を見ることができるようになったとき、それは自立した信仰と言うことが出来るでしょう。
 特に若いときならば、本との出会いが大きいはずです。今、ホーリネス誌では「一冊の本」という連載が続いていますが、興味深く読んでいます。私が原稿を依頼されたら何を選ぼうか、パスカルにするか内村鑑三にするか、とにかくその本を手にしなかったら、自分の人生はかなり違っていたという本があるはずです。皆さんの人生の様々な出会いをお聞きしてみたいと思います。

2008年3月22日 (土)

東京聖書学校の寮生活(3月23日)

  4月から東京聖書学校で賄いをしてくださる方を求めているのですが、もう1週間しかないのに未だに見つかりません。この短文をみて、応募してくださる方、心当たりを紹介してくださる方が現れることを期待します。

 学生の食事は朝昼夜と三食あるが、昼は弁当を取り、夜は学生が交替で作る。従って賄いさんには朝食のみの準備となるが、朝は早い。7時15分から朝食だが、準備は5時半頃から始まる。今は通いで準備してくださっている方があるが、まだ暗いうちに家を出るのだろう。
 昨春までの4年間は、学校に入学した兄弟の奥様が、「主人が献身して入学したのですから、私もそのつもりで賄いをいたしましょう」と申し出てくださって、兄弟が卒業するまで4年間、学生の朝食を準備してくださった。ところが、姉妹は学ぶことに大変意欲的で、殆ど全科聴講生になり、夫君も顔負けするほど、賄いよりも学びに一生懸命だった。今は、夫君と共に遣わされた教会に仕えておられる。
 賄いさんは学校の職員になるので、給与はあるが、低い。それだけで生活が出来るほどではない。しかし、部屋は寮に準備されているから、例えば幾らかでも年金が下りる人ならば、十分生活は出来るであろう。そして、学習意欲があるなら、学生と同じように勉強することも出来る。
 百聞一見に如かず、一ヶ月でも二ヶ月でも学生と共に生活してみたら、学校生活が良く分かるであろう。そして、学校にも献身者にも親しみが増して、神学生と戦友の意識が生まれるであろう。私も昔、聖書学校の寮に半年間、修養生として置いてもらった。あの経験がなければ、果たして伝道者が務まったかどうか。私のようにCコースで補教師になった人は、短期間でも寮生活をして訓練を受けることは大きなプラスになると信じる。賄いから話が発展したが、拙文を読んでくださった皆さんにも考えて頂きたいし、祈って頂きたい。

2008年3月15日 (土)

歴史の教訓に学ぶ(3月16日)

  今年も受難週を迎え、来週はいよいよイースターですが、私は教会の暦よりも年度末の仕事に追われています。本来の姿ではないですが、やむを得ないと思っています。というのは、今年はイースターが早く3月中に来ることと、4月の冒頭にホ群の年会があり、それまでにやらなければならないことが重なったためです。
 特に今週は、ホ群の歴史編集に追われました。月曜から学校に一泊して4人の委員で膝つき合わせて作業をしましたが、委員の間でも必ずしも意見が一致しません。戦前の部分は、すでにまとまりました。問題は戦後の歴史ですが、特にいわゆる教団紛争が始まってから、ホ群の分裂に至る約20年間が一番大変です。群の分裂がどんなに大きな痛手であったかは、今になってもその傷が癒えていないことでも分かります。
「神さま、どうしてですか」「どうしてこんなことになるのですか」と、どんなに涙をもって祈られたでしょうか。
しかし、どんなに祈っても知恵を絞って協議をしても、どうしても意見が一つにまとまらず、どんどん分裂の方向に進んでしまったことが、今振り返ると痛いほど分かります。その時は、皆夢中ですから気づかなかったことも多かったでしょうが、今冷静に考えればもっと別な道があったのではと皆思うでしょう。
 ホーリネス教会は、分裂を重ねてきたと言われます。宗教改革も分裂でしたから、分裂がみな悪いとは言いませんが、分裂による痛手を思うときに、極力避けなければならないことであることは間違いありません。人間の悲しさは、自分が正しいと信じることを主張しているうちに、サタンに足をすくわれてしまうことです。サタンは内輪もめが大好きだから、教会をそこに追い込んだらしめたものだとほくそ笑んでいるのです。パウロは「サタンのやり口は心得ている」と言っていますが、しかし、そのパウロもサタンの誘惑からいつも守られていたわけではありません。ともあれ、歴史の教訓から学ばなければならないと改めて思わされています。   

2008年3月 9日 (日)

新年度に向けて(3月9日)

 これも私たちの教会の内部の問題なのですが、何かの参考になるかもしれないと期待して載せることにします。 
  
 新年度の教会総会に向けて準備を進めていますが、一年を振り返って今年度一番大きな事は、森田聖子先生を迎えたことでしょう。教職三人体制でチームを組んで進むことになりました。まず半年は助走のようなもので、これからが本番と思っています。
 次に、創立100周年を来年に控えて、今年はまず記念誌の編集に精力的に取り組まねばなりません。委員会の作業も着実に進んでいますが、来年の出版の目処が立ってきたように思います。皆さんの証も、出来るだけ早くまとめてくださるようにお願いいたします。

 建物・設備関係ですが、現在話が出ているのは礼拝堂の冷房設備です。天井が高く広いので、全体を冷やすのは簡単ではありませんが、例えば礼拝堂の前方または後方だけを冷やすということも考えられるでしょう。クーラーは嫌いだとか体質に合わないという方もいますので、かえってその方が良いかも知れません。一部だけを冷やすことが出来るかどうか、専門家によく訊かねばなりませんが、皆さんのご意見、ご希望をお聞かせください。
 100周年記念事業の一つとしてのエレベーター設置はすでに完成して役立っていますが、同時に協議された和室の改造(応接室と伝道師の執務室に分割する)は役員会で否決され、そのままになっています。取り敢えず和室には籐椅子を入れて、応接室にも兼用していますが、何か良いアイデアがあればこの際改修しても良いのではないでしょうか。皆さんのご意見を期待します。

 教会学校と青年会は目下の最大の課題と言ってよいでしょう。もっと子どもたちと教師が欲しい、そして、青年会が自主的に活動して欲しいということは、元青年、元教会学校教師たちの共通の願いです。新年度に期待しましょう。         

2008年3月 6日 (木)

伝道者たる者

 短文を更新していないことに気づきました。今週の週報短文は、私たちの教会内部の問題ですので、違うことをちょっと書かせて頂きます。

 聖書学校の卒業式が終わりました。卒業式は学校の最大イベントと言ってよいでしょう。今年も感激の卒業式でした。聖書学校の使命は、伝道者を教会に送り出すことです。卒業にまつわるいろいろな話が出ましたが、ある人が「オアシス運動」ということを言ったそうです。伝道者は、オアシス運動が出来る人でなければならない、というのです。私は、オアシスと言うから、てっきり人を慰め、休ませ、潤いを与える人のことかと思ったのですが、そうではなかったのです。オは、お早うございます、アは、ありがとう、シは失礼します(だったと思う)、スは済みません、と、誰にでも言える人でなければならない、ということでした。これが言える人を教会に派遣してくださいという、信徒の切なる願いであるというのです。私は、唖然としました。学校を卒業して伝道者になって来る人に、そういうことが言えない人がある、というのです。
 これはまさに信仰以前の問題です。社会人としての常識の問題です。しかし、そういう初歩的常識をわきまえない人が学校から遣わされてくるという現実がある、それに対する強い抗議と受け止めました。それは聖書学校に来る前に、当然家庭や学校で、身につけてくるべき人としてのマナーでしょう。それが身につかないままで学校に来て、そのまま卒業していくということのようです。驚きました。私たちも、注意しなければならないことです。ありがとうも言えない人が、ギリシャ語やヘブル語を勉強するというのも、考えてみると滑稽なことですね。これは聖書学校だけではなく、世の中全体がおかしくなっているということですが、教会やクリスチャンホームも例外ではないということを考えると、これは安閑としておれないと思います。如何でしょうか。

2008年2月24日 (日)

若い兄姉へ(2月24日)

  祈祷会でも卒業や進学、就職を控えた若い兄姉のために心を合わせて祈っています。若いことは未来の可能性に富むことですが、また、人知れず悩むときでもあります。
 先週の週報に小助川先生のことを「ケズィックの恵み」の中で書かせて頂いたが、出店された本屋で同師の書かれた「ひたすら人間らしさを求めて」~牧師の体験による人生論~を買い求めて読んだ。この本の中で師が繰り返し語っておられるのは、若い日に何のために生きるのか、また、人生をどう生きれば良いのかと思い悩んで、高校時代には肺結核に倒れ、大学でまた結核を再発するなど、健康面でもずいぶん試みられたこと、しかし、振り返って、あの若き日の悩みがあったからこそ牧師となって奉仕できたことを感謝しておられる。
「苦しみにあったことは、わたしに良いことです。
これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119・71、口語訳)
また、哀歌には、
「若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みを見いだせるかも知れない。」(哀歌3・27、28)
 小助川先生の本は、若い人たちばかりでなく、中年の者にも熟年の者にも、その年齢に応じて味わい深く読むことが出来る。師は、心理学やカウンセリングの勉強もしてこられ、それらの学びからも人の生き方を語っておられるが、余り学問に深入りせず、人間の生き方を問う範囲に留めて、自分で分からないことは分からないと書いておられることも、信頼をもって安心して読むことが出来る。随所に、先生の謙虚なお人柄が滲み出ている。
 若い兄姉には、人生の目標をしっかりと思い定めて、信仰と祈りをもってまっしぐらに突き進んでいただきたい。そのためにも、先輩に謙虚に学ぶ努力をしていただきたいと思う。      

2008年2月17日 (日)

「ケズィック」の恵み(2月17日)

  第二回東北ケズィック・コンベンションが恵みのうちに終わりました。主講師のレンドル先生と黒木安信先生のバイブルリーディングは充実したものでした。出席できなかった兄姉もテープをじっくりと味わってみてくださるようお奨めします。
 2日目の夜、レンドル師は2回目の「神の宮」についてのお話しを終えて、「恵みの座」に私たちを招かれました。しかし、その招き方がやや明確でなかったように感じられました。牧師には、信徒の方を導くために、という招きであったように受け取れました(誤解かも知れない)。結局、前に進んだ人は少なく、私も出そびれました。
 集会が終わってから、会長の小助川先生が牧師達を集めて言われるのに、このままこの聖会が終わって良いだろうか。ケズィックでは「いかなる身分も立場もなく」(ケズィックの主旨)等しく神に取り扱われるところであるはずだ。恵みの座にも牧師が率先して進み出て、信徒がそれに続くというのが本来の姿ではないか。もう一度、最後の聖会でレンドル師にお招きを願おうではないか、とのお話しでした。牧師達も皆、それに同意しました。
 最後の聖会となりました。レンドル師のバイブル・リーディングが終わって招きの時が来ました。小助川先生がつと立ち上がって前に立ち、静かにケズィック・コンベンションの特質を語り、「私たちもみ言葉に従い応答しようではないか」と恵みの座に一同を招かれました。牧師達が進んでその招きに応え、信徒たちもそれに続きました。私も恵みの座に出て静かに祈りながら、これこそケズィック・コンベンションだと、新鮮な感動を覚えました。
 聖会の恵みはすばらしいメッセージだけではありません。そこで、何が起こるかということです。それは、そこに臨在してくださる聖霊のお働きです。小助川先生はご高齢で体調も十分でない中を、会長の責任を担って出席され、全体のために祈り導いてくださることに深い感謝を覚えました。 

2008年2月 9日 (土)

ケズィック・コンベンション(2月10日)

 第二回東北ケズィック・コンベンションが、今夕から二泊三日で茂庭荘で開かれる。昨年は近くの婦人会館と早天のみこの教会で開かれたが、今年は泊まりがけで出来る会場ということで茂庭荘が選ばれた。しかし、委員会は宿泊の世話をしないということで、それは各自が直接申し込むことになったが、連休なので他の宿泊客が多く、宿泊が取れない人もかなり出たようだ。委員会がそのことを早く予想できたら、部屋を確保することもできただろうが、今となっては遅すぎた。来年はこの点を反省して、より良い聖会にすることができるだろう。

 ケズィック・コンベンションは英国では伝統のある大きな聖会で、1865年から英国北方のケズィックという美しい湖沼地帯に天幕が張られて聖会が開かれるようになった。英国はもとより、ヨーロッパ、アメリカからも恵みを求める多くの人々が集まるようになり、英国の聖地の観を呈した。英国やアメリカその他の国々の代表的なきよめの説教者がここでご用をし、また、この聖会から多くの主の器が各地に遣わされていった。日本に来られたバックストン師も、この聖会で献身したと聞いている。

 「この聖会の醍醐味は、バイブル・リーディングと呼ばれる卓越した霊的講解説教にあります。会衆はこの説教に耳を傾けているうちに、いつしか主の聖臨在に触れ、神のみ言葉の深みに与ることが出来ます。そして、ここでのモットーは『みなキリスト・イエスにあって一つ』で、毎年全国で四〇教派以上、三七〇〇名の教職・信徒が、この恵みに与っています。」(東京大会のチラシから引用)

 日本に始められて半世紀近くになるが、箱根で最初の聖会が開かれて以来、今は北海道から沖縄まで10ヶ所ほどで開催されるようになった。遅れていた東北も全国の諸教会の祈りにより、昨年ようやく第一回が開かれ「東北から新しい風が」と期待された。その期待に応えて、先輩のコンベンションに勝る良き聖会を続けていきたいものである。     

2008年2月 2日 (土)

ホーリネス誌について

  「ホーリネス」二月号が届きました。今月号は珍しく「教会と危機管理」の特集で、能登半島地震報告などの自然災害から、より日常的な教会の危機(信徒や牧師に関わること、または不動産に関わること、付属施設のこと等々)、さらには、教会の高齢化に伴う諸問題や、心病む人々への対応等、多くの課題が取り上げられています。ウェスレーも自ら医療に関する本を出版して信徒の健康にも配慮しましたが、今日の日本の教会も噴出する社会問題に信仰をもってどのように対応するかが問われていることを改めて思わされます。

 ところで、皆さんもホ誌をお読みになっておられるでしょう。中島代作師はときどき「ホ誌で教えられたこと」というような題で、祈祷会や夕拝であかしを求めておられました。中島豊師はどうであったでしょう。私は、あまりホ誌のことを言わないので、ホ誌をあかしで取り上げる方は少ないようですが、ホ誌は私たちの群の機関誌であり、小さいながらホーリネス信仰を証しする貴重な雑誌ですから、教会員全員に読んで頂きたいと思っています。

 中島代作師と言えばホ群の諸教会はすぐホ誌を思い出すくらい、先生はホ誌に打ち込んで居られました。先生がホ誌を担当するようになったのは1956(昭和31)年頃からで、小原十三司師が召された1972年に群の規約が改正されてホ誌も文書部で発行されるようになるまで、主筆のように殆どお一人で編集しておられました。私は、文書部の委員に選ばれ、それから香港へ行くまでの12年間、そして帰国して西川口時代の14年間、委員の一人として編集発行に携わりました。数えてみると26年になりますが、そんなに長く編集に関わった人は他にはいないと思います。私は及ばずながら中島師から受け継いだ伝統を大切にしてきたつもりですが、その後、文書部委員長が何人も交代して、新しい局面も拓かれてきました。この時代に、ホ誌の存在は貴重です。どうぞ皆さん、購読してください。   

2008年1月26日 (土)

「聖歌」「讃美歌」について

 27日の週報短文は、公開するのを遠慮して書きかえてみたが、これも誰かから「意義あり」と言われそうな文章になってしまった。一つの私見としてお許しを願うことにしよう。

  先日、東京聖書学校に和田健治師が訪ねて見えた。同師は聖歌の指導者として著名な方だが、お会いするのは久しぶりである。私たちが現在用いている「聖歌」は、中田羽後師によって編纂されたが、それ以前には「リバイバル聖歌」という小さな歌集を用いていた。羽後師は生涯をかけて宗教音楽を研究し、「聖歌」の発刊に努められた。これは今日まで「讃美歌」と同じくらいに日本の教会で広く愛用されてきた。
 ところが、2001年に「新聖歌」が発刊され、これまでの「聖歌」は廃刊されることになった。今日は、書店で求めることは出来ない。ところが、和田健治師は「聖歌」の重要性を以前から主張され、御自分が主催する聖歌の友社から新しい「聖歌」(総合版)を出版された。従って、今日は「新聖歌」を用いる教会があり、また、従来の「聖歌」または新しい「聖歌(総合版)」を用いる教会があり、ちょっとややこしいことになってきた。聖歌ばかりでなく、讃美歌も讃美歌ⅠとⅡに加えて、新しく「讃美歌21」が出版されたので、教会はどの讃美歌を用いるか迷うところがあり、教会の讃美歌、聖歌は混乱しているといっても過言ではない。今は過渡期だからと簡単に片づけられない点がある。
 聖書の翻訳もいろいろあるのだから、讃美歌、聖歌も種々あってもよいという意見もあるが、讃美歌、聖歌は皆で声を合わせて歌うものだから、静かに目を通す聖書とはわけが違うのだ。
 和田師は、讃美歌、聖歌の混乱で、教会が分裂することを危惧しておられた。しかし、「新聖歌」に対しては、どうしても言わなければならないお考え(批判)を持って居られる。しかし、なぜ中田羽後師からも「後をよろしく」と言われたという和田健治師が「新聖歌」の編纂委員に入らなかったのであろうか。編纂委員の方にもお訊きしてみたいものだ。それが今日の混乱の原因の一つになっている。事情を知らない者が、外野席からこんな事を言うのは軽率かも知れないが、我々日本人の島国根性というか、考えの狭さが残念でならない。

2008年1月19日 (土)

人の気質と地域性(1月20日)

  かれこれ40年近く前になろうか、イザヤ・ベンダサンという人が「日本人とユダヤ人」という本を出版して、ベストセラーになった。一体、この著者は何者だろうと、ミステリーのように騒がれた。ユダヤ人という一般の日本人から見ると遠く隔たっていると感じられる宗教的民族と日本人を対照させることにより、日本人の国民性を際だたせようという試みだったように思う。また、土居健郎の「甘えの構造」も日本人の精神性を「甘え」という角度から捉えて、この本もずいぶん読まれた。
 日本人とはいかなる人種か、これを統治するにはどうしたらよいかという問に答えたのが、ルース・ベネディクト女史の「菊と刀」で、これも戦後の一時期ベストセラーになったと聞いている。これらはいずれもキリスト教と深い関係があり、我々の信仰を反省する上で参考になると思う。
 その他、特にキリスト教とは関わりなく、日本人とは何者かという自らのアイデンティティー(自己意識)を問う本は巷に沢山ある。こういう問題に関心を持っている方も居られるに違いない。
 さて、どうしてこんなことを書くかというと、最近あることを感じさせられたからだ。一口に日本人と言っても、かなり地域性、県民性がある。何故そういう地域性や県民性が生まれるのか興味があるが、最近とんぼ返りながら旭川に行って、改めて道産子(北海道で生まれ育った人)気質を思い出した。人が好く楽天的で、開放的、開拓精神に富む等が挙げられよう。
 同じ北国でも、東北人はかなり違う。堅実でねばり強いが、容易に他人に心を開かない。だから、なかなか友達ができない。キリスト教信仰に対しても慎重だが、一旦信仰に入ったら滅多なことでは信仰を捨てないとT牧師から聞いた。これは大方の日本人とはかなり違い、東北人気質の一つと言えるだろう。まだ仙台気質がわかったとは言えないが、保守的で変化を嫌うのは東北人一般の特性ではないか。皆さんのお考えもお聞きしてみたいものだ。 

2008年1月12日 (土)

冬の旭川へ(1月13日)

  先週はお許しを願って、静江牧師と二人で北海道の義兄の病気見舞いに行って参りました。義兄は今、旭川の病院に入院しております。仙台空港から旭川への直行便がないことと、出来るだけ安い費用で行きたいと考え、羽田からのツアーに申し込みました。一泊二日で通常の航空券の半額以下です。但し、航空便は指定されるので、早朝羽田発、帰路は夜10時過ぎ羽田着で、往復とも東京に一泊せねばなりません。幸い、静江の姉が世田谷におりますので、二晩世話になりました。
 八日の委員会を終えて、夕方の新幹線で東京へ、姉の家に直行しました。久しぶりに甥の子どもたちにも会いましたが、幼子の成長には目を見張るものがあります。
 翌早朝、妹が車で羽田まで送ってくれるというので五時半過ぎに家を出て、羽田まで小一時間です。旭川まで一飛びですが、旭川は小雪がちらつき、羽田との温度差が20度近くあります。病院に直行、兄の病状が心配でしたが、思ったより元気そうで安心しました。姉がつききりで看病し、気を張って疲れている様子でしたが、病人のアレコレの注文に応じています。余り長居も出来ないので適当に座をはずし、また、姉から詳しい病状を聞き、個室でしたので共に祈り賛美して午後早めに辞去しました。
 ホテルはJR旭川駅から少し離れたところで、外の寒さに比べて室内は暖かく快適でした。夜、久しぶりに「しばれる」寒さの中を歩きましたが、冷気が身に染みました。
 翌日は夕まで時間が空いたので、ツアーについている旭山動物園を見に行くことにしました。五年ほど前から全国的に有名になり、特に寒さを吹き飛ばすペンギンの可愛らしい散歩やアザラシ、北極熊のダイナミックな泳ぎを身近に見ることができます。
 次に、動物園からタクシーで三浦綾子文学記念館を見に行きました。これも以前からの念願が果たせて感謝でした。そして、予定どおりの最終便で羽田に戻り、世田谷に一泊、翌日は東京聖書学校の授業を終えて無事帰仙しました。お祈りを感謝します。

2007年12月30日 (日)

一年を振り返って(12月30日)

 今年も最後の主日礼拝を迎えました。一年を振り返って、今年はどんな年だったでしょうか。
 先日の祈祷会で、何人かの方から恵みの分かち合いがありました。ある方は、次々と追いまくられるようで多忙な一年だったと語られました。私も、同様の思いがないわけではありません。しかし、振り返ってみて充実した一年だったと感謝します。主な出来事を拾ってみると、二月中旬には第一回東北ケズィック・コンベンションが開かれました。三月は東京聖書学校卒業式、八名の兄姉が卒業したのも近年にないことでした。四、五月は教会総会、教区総会が開かれ、六月には潮義男師を講師として特伝が開かれました。七月は、錦秋湖での福音主義牧師研修会と東京で教職アシュラムに参加を許され、私にとっては充電の時でした。七月末、ファミリーキャンプ(花山)、八月初旬東北夏期聖会(八幡平)、聖会には聖書学校のキャラバン隊も合流して良き証しを聞きました。九月は聖書学校の退修会、公開講座があり、当教会では敬老祝福愛餐会、朝祷会東北ブロック大会、宮城聖化大会が開かれました。
 10月には前からの念願であった伝道師招聘が適って森田聖子師を迎え、また、札幌の母教会での大切なご用に招かれ、特に一年余り牧師会で祈って備えてきたクリストファー・サン師を迎えての特伝が開かれました。月末には教区教師研修会の講師をピンチヒッターで務めました。
 11月には召天者合同記念礼拝・記念会、また、半年以上準備が積み重ねられて「ラブ・ソナタ」と関連集会が開かれました。12月はアドベントに入って、まず教会復興六二周年記念礼拝・愛餐会、続いてクリスマス諸集会が毎週行われました。
 以上、教会と牧師個人の一年をミックスして振り返ってみましたが、多忙の中にも恵まれた一年だったと思います。今年は、渡辺静江、青木惇子、三浦誠の三兄姉を天に送り淋しさを覚えましたが、クリスマスには三名の受洗者を与えられたことも大きな恵みでした。さらに主の恵みを慕い求めて新年に向かいましょう。

2007年12月16日 (日)

聖誕劇(ページェント)(12月16日)

  きょうは恒例のクリスマスページェントだ。毎年、教会学校との合同礼拝に続いて子どもも大人も共にページェントを主に捧げることがこの教会の伝統になっている。今年のページェントはどうだろうか。

 先週は、珍しく映画を見に行った。「マリア」というアメリカ映画。アメリカでは評判になったと聞く。原題は「降誕」とでも訳せようか、まさに我々のページェントを映像で描いたもの。マリアを中心に、ヨセフとの葛藤、村人のうわさ、ヘロデのあくどさやローマ帝国の圧政などがよく描かれている。東方の博士たちにもかなりの比重を置いている。しかし、全体に聖書に忠実で、脚色に無理がなく、降誕物語に親しんでいる私たちには、いろいろ気づかされ、考えさせられることが多い。特に、当時のガリラヤの民衆が如何に貧しかったかも、これほどとは考えていなかった。ローマに税を納め得るか否かは正に死活問題で、金がない人が娘を取られたり、土地を没収されたりする悲惨な状況であった。羊飼いなどは、貧しいために生涯独身で暮らさなければならない。ヨセフとマリアが住民登録をするためにナザレからベツレヘムへ行く、その二百キロほどの行程は身重のマリアにとっては並大抵ではなかった。ついにベツレヘムへ着いて、貧しい一人の羊飼いと話す場面は印象的である。羊飼いは、マリアに「だれでも神から賜物を戴いている」と、マリアのお腹の子どもを指して言う。「あなたは?」と問うマリアに「何も」と答えて、「神の救いが与えられるという希望だけ」と答える。「希望が与えられている」、そこに彼の生きる望みがある。
 このような貧しい羊飼いたちに、イエス・キリストの降誕の報せが告げられ、みどりごの主イエスの最初の礼拝者になる。その場面も美しい。そこに東方の博士たちもやってくる。それは私たちのページェントと同じである。教会学校の子どもたちが観たらどんな風に思うだろうかとふと考えた。   

2007年12月 9日 (日)

アドベント第二主日(12月9日)

  クリスマスは主を賛美するときでもありますが、きょうはまさに賛美の一日になります。礼拝では、宮城学院ハンドベルクワイヤOG会の皆さんを迎えて、賛美礼拝を捧げることが出来ることは大きな喜びです。ハンドベルの響きの美しさをじっくり味わって頂きたいと思います。いつかは私たちの教会でもハンドベルクワイヤができたら幸いですね。六月に招かれた初雁教会のハンドベルもすばらしかった。一教会でもあのように出来るのですから、私たちもきっと出来ると信じています。
 午後には、第三回目を迎えた宮城中地区牧師聖歌隊のチャリティコンサートです。今春は、中地区九教会のうち三教会の牧師交替がありました。それでメンバーもかなり替わり、新しい先生方は牧師聖歌隊に慣れるだけでも大変だったと思います。この聖歌隊の特色は女性が少ないと言うことです。普通の混声コーラスは男性が少なく、合唱祭などに行っても、圧倒的に女声コーラスが多い。混声も男声は少ないのが普通です。しかし、我らの牧師聖歌隊は、男性が女性の倍ほどいます。そこで、本来は女声パートのアルトを二人の男性が歌います。これが聴きものです。全体に練習不足は否めませんが、祈りをもって精一杯やります。その成果をぜひお聴き頂きたいと願っています。
 チャリティコンサートの目的は、一つは先の中越沖地震と能登半島地震の救援と、「友子プロジェクト」のためです。去る三月に青年学生センター主催のインドへの研修旅行で、スタッフの一人であった渡利友子姉が思いがけない交通事故に遭い召天されました。そのことが契機となって、インドの女子教育のために始められたのが「友子プロジェクト」です。今回のチャリティコンサートが、これらのことのために役立つことを期待しています。
 今夕のエマオ夕礼拝でも大いに賛美がなされるでしょう。このアドベントの期間、諸教会で主を賛美する声が響きますように。        

2007年12月 2日 (日)

復興記念礼拝を迎えて(12月2日)

  今年も戦後の復興62周年の記念礼拝を迎え、この機会にもう一度教会の「八十五年記念誌」を読んだ。良くできていると思った。戦後60余年の歩みの中で、教会としての大きな節目は、主任牧師が中島代作師から中島豊師に代わったときである。記念誌には次のように記されている。

 中島豊師は、次のような伝道牧会方針を持った。
○当教会の特色であるホーリネス信仰、前任牧師の特色ある伝道方針(CS分校、家族伝道、一人が一人を)を継承する。
○牧会については、それまで時折開催していた役員会を毎月開き、伝道他一切の行事を役員会で協議しつつ行う。
○会員は役員に要望を出し、役員会で協議して慎重に決めていくなど全員参加の教会形成に努める。
○前任牧師が消極的であった特別伝道集会を積極的に開催する。

 以上のような伝道牧会方針により、礼拝出席その他、教勢が順調に伸びていったことが記念誌に記されている。一言コメントすれば、中島豊師は、前任の代作師の方針の重要な点(ホーリネス信仰等)を継承しつつも、それまで牧師のワンマン体制に近かった伝道牧会を「全員参加型」に改めたということが大きな転換であったと言えるであろう。
 この変化は大きい。ホーリネス教会は、元来監督政治であったから、牧師の権限が大きかった。代作先生も強いリーダーシップを持って教会を引っ張っていくタイプであった。しかし、豊師になって、より民主的に皆の声を聞きながら進めていく方針に転換し祝福されたと言うことであろう。
 先日、オンヌリ教会のことを副牧師から聞き、ハ・ヨンジョ牧師がこの十年間で大きく変わったのもそれと共通するところがあると思う。ハ牧師が強烈な説教で独りで引っ張っていく型を改め、聖霊充満の「愛の教会」になり、信徒が皆で愛し合い伝道していく中で、教会は飛躍的に成長したと話された。   

2007年11月24日 (土)

ハ・ヨンジョ師に学ぶ(11月25日)

  韓国オンヌリ教会のハ・ヨンジョ先生のお話を3回聞く機会に恵まれた。週3回の人工透析を続け、その外にも体のあちこちに故障を抱えながら、一日3回もメッセージをすること自体が驚きである。私は10年ほど前に先生のメッセージを聞いたことがあるが、その時とはかなり違う印象を受けた。それは、説教が自然体で身近になったことである。
 先生の著書も少し読んでみたが、まさに身を削るようにして説教をしてこられたことがよく分かった。「説教は礼拝の心臓である」と先生は言われる。説教により、教会は立ちもし倒れもする。説教の足りないところを他の何かで補うことはできないのである。
 説教のために、先生は黙想を大事にしておられる。説教は黙想から生まれてくると言う。朝毎の黙想から与えられたメッセージを講壇から語る。注解書は妨害になると大胆なことを言う。固定観念を植え付けられるからだという。中島代作先生もかつて同様のことを言っておられた。注解書は説教を書き上げた後で、自分の解釈をチェックするために読む程度でよいと言っておられた。それはベテランの牧師の言い得ることかもしれない。

 ハ牧師は牧会の姿勢についても語っておられたが、柔軟で自由な発想に教えられるところが多かった。心に残った言葉をいくつか紹介しよう。
「教会を骨董品にしてはならない。」
「長老は失敗を嫌う。だから、長老の考えが支配的になると、教会は面白くなくなる。」
「牧師は、オーケストラで言えば指揮者、スポーツで言えば監督である。戦うのは信徒である。」
「教会は、信徒が興奮するビジョンを持つべきだ。そして大人から子どもまで、そのビジョンを共有するのだ。」
「神に出会うときに、人間は変わる。礼拝は、神に出会うところである。」

五万人の信徒、四万五千人の礼拝出席の教会を牧会する中で語られた言葉である。     

2007年11月21日 (水)

祈りは聞かれる(11月18日)

 ジョージミューラーのことをご存じだろうか。ただ神様だけを当てにして、万を数える孤児たちを育てた。しかも、ミューラーの場合、孤児院の経営はいわゆる福祉の働きではなく、子供たちに神の愛を伝え、神の愛を身をもって実践する伝道の働きであった。彼が祈りをもって蒔いた種がどれほどの豊かな実を結んだかを思うときに、神の御名を崇める。
 晩年は、娘夫婦に孤児院を託して世界伝道に出発し、九十歳近くまで何度もアメリカをはじめオーストラリアやアジアにも足を延ばし、日本を訪れたときにも彼の証は人々に大きな感動を与え、若き石井十次が孤児の救済に立ち上がる直接の契機となった。
 1859年に英国にリバイバルが起こったが、その発端はひとりのアイルランドの青年がミューラーの本を読んで感動し「私も祈ることにしよう」と祈り始めた。まず主にある祈りの友を求めて祈るうちに、信仰を持ったばかりの青年が与えられて、ふたりは心を合わせて祈った。「さらに祈りの友を与えたまえ」と祈って、二人の青年が加えられた。四人は金曜日の夜に村の小学校の一室を借りて祈り続けた。その年、ひとりの農家の青年が救われて祈祷会のメンバーは五人になり、さらに徐々に人数は増えていった。彼らは、集会ごとに聖書を読み、祈り、みことばについて感想を述べ合った。そのメンバーのひとりが以前住んでいた町へ行って、その祈祷会のことを友人たちに話すと、彼らはその人たちに会ってみたいというので、数人が町を訪ねて教会で集会を開くことになった。集まった者たちの中には彼らを嘲る者もあったが、多くの者はぜひもう一度来てほしいと頼み、二週間後に同じ顔ぶれで町を訪問して二度目の集会を開いた。この時、聖霊が力強く働き、多くの人々が救われた。このリバイバルの火がアイルランドからイングランド、スコットランド、ヨーロッパ全土にも広がっていったのだ。
 去るラブソナタの全体祈祷会で、この話をして共に祈った。               

2007年11月 3日 (土)

「ウェスレーに学ぶ」(11月4日)

  今年の東北教区教職研修会は福島地区の担当で、磐梯高原リゾート・イン「ぼなり」で開かれました。地元の方々にはよく知られた保養地(温泉)とのこと。福島から国道115号線で土湯を通り抜け、ひと山越えたところにあります。途中の紅葉が見事でした。いつか見た山形の紅葉は赤が目に染みましたが、福島の紅葉は黄色がきれいです。
 研修会は26日午後から始まり、今年のテーマは「説教と牧会―ウェスレーに学ぶ」で、実は私が講師になりました。本当は別の講師が予定されていたのですが都合がつかなくなり、ピンチヒッターで誰か教区内にいないかということで私に回ってきたのです。宣教部委員長のS師から電話があったとき、もし私がS師の立場なら困るだろうと思って引き受けました。テーマは自由でよいというので、聖書学校で普段学生たちと学んでいるウェスレーにさせてもらいました。
 しかし、牧師たちの前で話すのは勇気を要します。以前に西東京教区の研修会で「祈り」について話したことがありますが、この時も大いに緊張しました。
 今回は2回の講演で、1回目はウェスレーの生涯をざっと話してから説教を取り上げ、2回目は教会観と牧会を話す予定でした。ところが、略年譜に従って生涯を話すのに時間を費やし、説教についてはわずか30分になってしまいました。でも、2回の講演とも質疑応答の時間が十分ありましたので、講演で話せなかったことを補うことが出来ました。質問も多くあり、先生方が真剣に聴いて下さったことがよく分かり感謝でした。後で、若い牧師から「神学校では宗教改革者の話は沢山聞いたが、ウェスレーのことは初めて聞いたように思う」と言われ、幾分でも役立ったかとうれしく思いました。もちろん研修会は、ウェスレーのことが問題なのではなく、我々の説教や牧会にどう活かすかということです。今回はそのために、ウェスレーを通して一石を投じたということです。今後も、このような学びが共に出来たらうれしいと思います。    

2007年10月28日 (日)

意味あるハプニング(10月28日)

  一年余りの準備をもって開かれたキリスト教大会は恵みのうちに終わった。教会としても、秋の特伝として取り組み、多くの方々のご奉仕を頂き感謝に堪えない。この伝道会を通して、直接間接の収穫があったが、協力教会の牧師達が心を一つにして祈り、準備に当たることが出来たことも大きな収穫であった。それによって、我らの信頼関係が深められたことを感じる。
 去る22日に実行委員会が開かれ、クリス(トファー)師も出席して、感謝や反省が語られた。その席上、ちょっとしたハプニングがあった。それは、実行委員長の田中師が会を進めておられたが、クリスは自分の考えで今後の伝道の継続を話した。すると、田中師が突然それを遮って、英語で彼を諭しはじめた。それは、この度の伝道会における彼のとった態度に対する忠告であった。クリスはまだ日本人のこと、特に東北人の気質を知らない。伝道会の前に田中師は個人的に色々クリスにアドバイスをし、会の全体的な進め方についてもよく打ち合わせておいた。ところが、伝道会が始まってみると、クリスにバトンが渡されてからは彼のペースで進み、時間もかなり超過した。最後の招きは大切だし、特にクリスはそれを使命と心得ているが、「過ぎたるは及ばざるが如し」の言葉の通り、せっかく祈って誘ってきた家族や求道者がつまずいたという事実もあった。伝道は主の戦いだから、そう言うこともあり得るが、この度はどうだったであろうか。クリスが田中師の忠告に従っていれば、あるいはそれを避け得たかも知れない。田中師は、今後もクリスが自分の考えで進むのであれば、今後の協力関係は難しいとまで言われた。クリスもそれを謙虚に受け止め、皆で感謝の祈りをもって会を閉じることが出来た。翌日、仙台を離れる前に、クリスは実行委員の牧師達一人一人に電話をして、私にも「アリガトウ」を繰り返していた。後日また、彼の爽やかな笑顔を見ることができるだろう。今後、この伝道を主がどのように導いてくださるか、主の導きに期待している。 

2007年10月15日 (月)

慌ただしい一週間(10月14日)

  森田聖子先生を迎えました。きょうは就任式と歓迎会です。ここに至るまでいろいろありましたが、神さまが万事を益にして下さったと信じます。

 先週は一週間、新聞を見る暇もありませんでした。六日土曜の朝、仙台駅から初めてアクセス鉄道で仙台空港へ、千歳に飛んで特急で旭川に直行しました。東京聖書学校に入学を希望している兄弟と、その父上に会うためでした。父上は一人で農業をしておられます。そのご自宅でしばらく話しました。帰り際に書斎に案内されて、一回り大きなパソコンの画面を開いて、今進めているインターネットの英文の聖書研究を見せてもらいました。父上が献身したら良いのにと思いました。旭川駅まで車で送って頂きましたが、旭岳の山麓はきれいに紅葉していました。特急で札幌に戻り、ホテルに投宿。
 七日の主日早朝、近所の大通公園を散歩、中心の三越の辺りは昔と全く様変わり。早めに懐かしい方々の待つ母教会(札幌新生教会)へ。皆、高齢になられたのに驚きました。講壇に立つのは拾数年ぶりです。午前は証しの礼拝。午後は札幌宣教交友会(SSK)主催の伝道会。15人ほどの青年達が揃いのTシャツでギターやドラムで賛美、驚きました。さらに、中高と大学の友人達五人が出席してくれたのに感激して、私も思わず熱っぽく「神にはできる」と福音書から語りました。その夕、兄姉達がホテルで夕食の席を設けてくれましたが、兄姉四人とそのつれ合いと(欠ける者も出てきた)いつまでこういう会を持てるだろうかと感慨深いものがありました。翌日は、SSK主催の聖会でしたが、午前と午後の二回の聖会も、母教会の礼拝堂はほぼ一杯で、特に若い人が多いのには驚きました。ロマ書八章から話しましたが、ちょっと難しかったかもしれません。いきなり、ロマ書のピークから語り出した感じで、やはり一章から学んで行くのが本当でしょう。夕方千歳まで兄に車で送ってもらって羽田に飛び、市川のホテルに着いたのは夜10時頃でした。(続)

特伝のために祈ろう(10月7日)

  10月を迎えました。いよいよクリストファー・サンと岩淵まことご夫妻を迎える「仙台圏キリスト教大会」も近づきました。5日(金)夜には協力教会の合同祈祷会が開かれ、委員長の田中敬康師から奨励を頂きましたが、信仰を鼓舞される力強いメッセージでした。マルコ九章から「信じる者には何でもできる」という主のお言葉、また、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」ということを新しく教えられて感謝しました。そして出席者一同、心を合わせて祈りました。まず講師のために、すべての奉仕者のために、そして、あの青年文化センターのシアターホールが満たされるように、決心者が起こされるように、仙台圏の教会が一つとされるように、祈りました。
 現在協力教会は13教会です。これに協賛教会が数教会起こされていますが、まだ、仙台圏の教会全体から見たら、ほんの一握りの教会です。委員長の田中先生が、仙台は超教派の集会が難しいところだと以前に語っておられました。そういう土地柄なのかもしれません。しかし、この度のクリストファー・サン師の伝道会、また、11月のラブソナタの集会の準備が進む中で、皆で力を合わせて宣教に励もうという機運が高まってきました。
 本来のキリストの教会は一つなのですから、これらの集会が突破口になって、心を合わせて伝道と奉仕に励む教会でありたいと願わされました。
 まず、10月19日、20日の大会が祝されるように、皆で祈り、家族や友人を誘って出席しましょう。出席することが第一の奉仕、誰かを誘うことが第二の奉仕です。クリストファー・サン師も多大の犠牲を払って私たちのために奉仕して下さるのですから、私たちも師の熱意に応えて少なくとも祈ってこの大会を支えましょう。先の二つの奉仕の前にあるのが、祈りの奉仕です。祈りの栞を用いて、また、大会前の集中祈祷にも参加して下さい。祈りが鍵であると祈祷会で教えられたことを感謝します。

2007年10月 3日 (水)

恵みの九月(9月30日)

  九月も終わりを迎えた。きょう、西間木一衛先生のみ言葉の取り次ぎをもって、この月を締めくくることが出来ることを感謝する。「数えてみよ、主の恵み」の聖歌のように、数々の恵みを頂いた一ヶ月であった。月の初めには東京聖書学校の退修会が日光「オリーブの里」で開かれ、学生、教師と共に恵みの時を持った。続いて吉川での公開講座にはホーリネス教団の重鎮、小林和夫師を迎え、ウェスレーについての充実した講演を伺った。
 九日は敬老祝福礼拝、愛餐会。今年も松下しん姉をはじめご高齢の兄姉と共に良き時を持たせて頂いた。14日には聖書学校の長年の願いであった「信徒夜間講座」が赤羽教会でついに開講し、開講式には50名近い方々が駆けつけてくださった。受講者は25名ほどが与えられ、毎週金曜夜、講座は快調に進んでいるとお聞きしている。
 17日は朝祷会東北ブロック大会。仙台朝祷会が中心になり、盛岡や郡山から、また連合会長の米田昭三郎兄も関西から駆けつけてくださり、大変恵まれた大会だったと報告された。
 私はその日、箱根に開かれた関東アシュラムに参加し、恵み溢れる三日間を過ごすことを許された。特にフィリピ書をじっくり読み、祈ることが出来たことは大きな感謝であった。
 24日は第一九回宮城聖化大会が開かれ、中島秀一師より「キリストの血」について旧約、新約よりみ言葉が取り次がれ一同恵まれた。
 最後に思いがけず、札幌の母教会の昔の仲間が聖書学校を訪ねてくれて、4人で時の過ぎるのを忘れて話し込んだ。もう母教会を離れて五〇年になろうとしているが、それぞれがおかれた場所でその地の教会によく奉仕している話をじっくり聞かせて頂いた。一人は東久留米の教団の教会、一人は佐倉の改革派の教会、そしてもう一人は西宮の福音ルーテル教会、教派は異なってもキリストにおいて一つ、母教会で培われた信仰が今も生きている。感謝。 

2007年9月22日 (土)

アシュラムに参加して(9月23日)

  関東アシュラムに招かれて箱根に行ってきた。このところ何年も、千石原に近い山崎パンの箱根山荘で開かれている。山崎パンの社長は熱心なクリスチャンで、今回ご本人は参加できなかったが、奥さんとお姉さんはアシュラムの常連で、今回も出席して熱心に祈っておられた。
 アシュラムについて、そのすべてをこの短文に記すことは出来ないが、私の信仰は教会の礼拝その他と共に、アシュラムで養われたと思っている。アシュラムは一言で言えば祈りの集会であるが、この世の一切から離れて、み言葉と祈りと信徒の交わりに集中する。それは一日だけの短いアシュラムもあるが、2泊3日は欲しいと思う。スタンレー・ジョーンズが日本にアシュラムを紹介したのは半世紀も前になるが、彼の指導するアシュラムは日程がもっと長かった。しかし、忙しい日本の社会では難しい。
 アシュラムの中心は、各自がみ言葉に聴くということである。時間を取ってじっくりと聖書に聴く。そして、示されたみ言葉を共に分かち合う。説教もあるが、それが中心ではない。私も2回の説教を命じられたが、説教者はあくまでも聖霊ご自身の導きに従い、祈りのうちに示されたみ言葉を語る。今回はフィリピ書に聴こうということで、私は2章、3章から語らせて頂いたが、アシュラムにおいて示されたことは、何冊の本を読むよりも意義深かったと思っている。
 今回の主題は、今年の青葉荘教会の聖句そのままに「キリスト・イエスの心」とさせていただいた。そして、アシュラムで思ったことは、創立百周年を迎える私たちの教会が、まずアシュラムを開いて、みんなで「キリスト・イエスの心」を求めて祈るべきではなかろうか、ということである。それは「祈りの教会」である青葉荘教会にとって最も相応しいことではなかろうか。確かにアシュラムは、この教会に向いていると思う。これらのことを役員会その他でも話し合っていきたいと願っている。 

2007年9月15日 (土)

信徒夜間講座(9月16日)

  この度、赤羽教会の新会堂を会場に東京聖書学校の信徒夜間講座を開くことが出来た。これは、以前から教授会で話し合ってきたことであり、深谷先生はじめ赤羽教会の全面的な理解と協力を得て開講の運びに至ったことはまことに感謝である。
 東京聖書学校が淀橋教会に付属していた頃、信徒伝道学校という名で夜間講座が開かれ、私などは駆け出しの伝道者であったが狩り出されて、何かを担当させて頂いた。それは自分にとって貴重な学びになったと記憶している。その後、聖書学校は淀橋から東久留米に独立の校舎を得て移転したが、それと相前後して、ホ群も学校も教団紛争の渦に巻き込まれていった。それはやむを得ない面もあったが、もし、中央委員会がホ群を紛争に巻き込ませず、毅然として独自の道を行き、信徒伝道学校で信徒を養うような地道な努力を続けていたら、今日のホ群は今とはずいぶん違っていたのではないか。今さらそんなことを言っても仕方ないが、リーダーがどういう考えを持って群を導いていくかは大事なことである。先週は安倍晋三首相の突然の辞任で驚かされたが、一国をリードする者の責任の重大さを改めて思わざるを得ない。 

 信徒夜間講座の開講式において、私は開講講演として「ジョン・ウェスレーの生涯と信仰」と題して拙い講演をさせていただいたが、実は、ウェスレーのメソジスト運動と信徒夜間講座とはつながっている。それは、メソジスト運動も信徒に負うところが大きかった。英国国教会から白眼視されたメソジストたちは、ウェスレー等によって指導された信徒伝道者を中心に働きが進められた。ウェスレーは自ら先頭に立って伝道に励むと共に、信徒伝道者の育成に力を入れた。この伝統はメソジスト教会に受け継がれ、昔は「勧士」という制度があり、勧士の資格がある信徒が、説教や奨励をして伝道が力強く進められた。ホーリネス教会も一時はこの制度を取り入れたことがある。信徒が牧師と共に伝道の最前線を行くことは、いつの時代にも求められていることである。 

2007年9月 9日 (日)

退修会・公開講座(9月9日)

  今年の東京聖書学校退修会は、昨年に引き続き栃木県の「オリーブの里」で開かれた。昨年との大きな違いは、学生数が半減したことである。
 テキストは新訳の「キリスト者の完全」である。ウェスレーの代表作であり、私たちのホーリネス信仰の原点とも言って良い本だが、なかなか骨が折れる。藤本満師の新訳で読みやすくなったとは言え、やはり簡単ではない。発表者もそれなりに工夫して下さったが、皆苦労の跡が伺えた。その中で、一番若手のS師の発表が光っていた。「牧師会でもう一度発表して下さい」とお願いしてきたが、まず牧師が理解を深める必要があると思う。
 
 木曜日の公開講座はホーリネス教団東京聖書学院の元院長、小林和夫師を迎えて、「ホーリネスの歴史的考察とその要点」という充実した講演を伺うことが出来た。小林師は2,3年前に軽い脳梗塞で倒れ、幸い復帰して広くご用に励んで居られるが、無理は出来ないお体である。しかし、ホーリネス一筋の貴重な学究であり、その総決算とも言うべきウェスレー神学の簡潔な紹介は、さすがと思った。
 「お役に立てればいつでもまた参りますよ」と、昼食会の最後にご挨拶してくださったので、できればもう一度じっくり伺ってみたいものである。師はFEBCのラジオ放送にレギュラー出演しておられるので、その説教は電波を通して聴くことが出来るが、今回の講演を伺って、説教者としても第一人者であることを改めて感じた。誰しもが認める、力強い説教者だ。     

2007年8月25日 (土)

ゆったり夏休み(8月26日)

   夏休みを頂いて、21日から古川・栗駒方面へ出掛けました。主目的は40年ぶりの栗駒登山です。古川には静江牧師の甥の伴侶の実家があり、以前から訪ねてみたいと思っていました。今、細君が子供を連れて実家に戻っているので、今を逃してはと思って訪ねました。すっかり歓待されて恐縮。
午後は栗駒に向かいましたが、駒ノ湯に直行するのは早過ぎるので、世界谷地という那須の湿地帯に似た所を歩きましたが、お花は殆ど咲いておらず、もう薄の季節を迎えていました。

 翌日は栗駒登山を予定しましたが、あいにくの雨、いわかがみ平まで車で行ってみましたがやはり無理、近くをドライブしても雨の中ではどうにもならず、宿に戻って高校野球の決勝戦をテレビ観戦することにしました(テレビはどうにか映る程度の山あいです)。劇的な逆転劇に、高校野球ならではのスリルを味わいました。後はのんびり温泉に浸り休養。

 翌朝は雨も上がり、天気予報でも登れそうです。またいわかがみ平まで車で上って、そこから二人で石畳の登山道を登りました。最後が少しきつかったが2時間かからず順調なペース。山頂は快晴とは言えないまでも、お目当ての360度の展望を楽しみました。降りは登りよりも時間がかかったが、何とか無事に下山できて感謝。そのまま厳美渓経由で猊鼻渓まで車を走らせ、のんびりした川下りを楽しみました。少し遅くなったので、その日は一関の「かんぽの宿」に一泊。夏休み最後の家族連れで賑わっていました。ここで東北夏期聖会はどうか?

 最終日は北上川にそって南下するドライブを楽しみました。川は濁っていたが滔々と流れ、啄木の歌や宮沢賢治のことも思い出される。そのまま行くと石巻まで下ってしまうので川と別れ伊豆沼で蓮の花を見て、後は高速で戻りました。4日間ラビをお世話くださった斉藤基家に寄り、二人と一匹で帰宅。旅行中も毎朝二人で教会の無事を祈りましたが、私たちも皆さんの祈りに支えられ、感謝、感謝。

2007年8月18日 (土)

祈りは必ず聴かれるか?(8月19日)

  母教会の日曜学校・青年会時代の友人M兄が、一年ぶりに奥様と来仙された。昨年は私たちの夏休みに来仙し、一緒に遠刈田にI師を訪ねて楽しい時を持ったのも記憶に新しい。しかし、彼はその後癌が判明して手術を受け、今はすっかり回復して日常の生活に特に支障はないという。今回もM夫妻と私たち二人と四人で楽しく語り合ったが、最近彼がエッセイ風にまとめた「聴かれた祈り、聴かれない祈り」という小冊子を持参してくれた。一読して彼が深く考えておられることに感銘を受けた。
 その直接の契機は、母上(九四歳)が自宅で転んで頭を打ち、意識をなくされたことである。医者からは、怪我の状態から意識を回復することは難しいと言われたそうだが、教会の皆さんに祈って頂いたら、その日に奇跡的に一時的ながら意識を回復したとのこと、M夫妻が母上のところに駆けつけた日にも、二人を認めた母上は顔を輝かせて何度も「ありがとう」と言い、手を握ると握り返すのがはっきり分かった。しかし、その日からまた意識がなくなって、肉親が見舞っても反応はない。このことに関して、M兄はこう書いておられる。

「私たちの願い、望みは際限がありません。一時でも母が意識を回復してくれたことを主の憐れみと心から感謝して受け止めましたが、更にまたもう一度と願い求めてしまいます。しかし、その祈りはまだ聞き入れられません。祈りとはそもそも何でしょう?祈りは必ず聴かれるでしょうか?……」

 こういう問題意識を持って遠藤周作の「沈黙」や内村鑑三の「ヨブ記」、伊藤馨牧師の「獄中記」その他を手がかりに祈りについての考察を進めていく。
 母上が転倒して二ヶ月が過ぎ、今また意識が回復して「医者もびっくりの奇蹟の回復」の途上にあるという。神に不可能なしと、聖書は繰り返して教えているが、それはすべての祈りが聴かれるということではない。どんなに考えても、信仰の世界には、私たちには分からない部分が残る。    

2007年8月13日 (月)

第34回東北夏期聖会(8月12日)

  今年の東北夏期聖会は昨年に引き続いて八幡平ハイツで開かれた。今年は東京聖書学校のキャラバン伝道隊4名を迎えた。聖書学校は地方教会とは比較的交わりが薄いので、学生たちにとっても教会にとっても貴重な交わりの時になったと思う。
 4名のうち2名は4年生で、実は彼らが1年生の時にも東北キャラバンのメンバーとして私たちの教会でも奉仕してもらった。しかし、今回の聖会での彼らのあかしを聴いて、3年間の成長ぶりをうれしく思った。聖会に参加された兄姉も異口同音に彼らのあかしが良かったと評価して下さった。
 早天聖会も入れて5回の聖会と閉会礼拝、さらに分団と閉会礼拝が今回の聖会の内容だが、一泊二日(正味24時間余り)の短い日程では聖会が休みなく続くのもやむを得ない。今回は「テモテの手紙Ⅰ」を地元の牧師たちが分担してメッセージした。この手紙は一読すれば良く分かるように、極めて実践的な教えに満ちている。その中からどこに焦点を絞るかに説教者は苦労したであろう。いつもの聖会のように「きよめ」があまり語られなかったと言う声も聞こえたが、見方を変えればこの手紙全体がきよめられた生活の勧めなのである。これを私は「実践的きよめ」と呼んだが、早天聖会の短い説教だったので、その意図が愛兄姉に伝わったかどうかは疑わしい。私自身は、田中寛也師の「祈り」(2章)のメッセージに教えられるところが多かった。他の方々は如何であったろうか。その一部は、次号の「いこい」にも報告されると伺っているので、それを待つことにしたい。
 来年の聖会についても牧師たちで相談したが、次回は講師を他から招きたいと話し合った。日程は今年と同じ頃になるはずなので、今から楽しみにして、この教会からももっと多くの兄姉で参加して恵まれたいと思う。聖会はホーリネス教会の始めからの伝統である。私たちもこれを大事にして、確実に次世代にバトンタッチしていきたいものである。 

2007年8月 8日 (水)

楽しかったファミリーキャンプ(8月5日)

 夏の諸行事が続いていますが、どうやら終わりに近づきました。
 先週の金曜日から出掛けて、週報短文のアップが遅れました。おゆるし下さい。

 今年第2回となったファミリーキャンプは恵みのうちに終わった。天候がはっきりせず、夜に予定したキャンプファイアーも出来なかった。その代わりに、室内でろうそくを沢山灯して静かな礼拝の時と楽しいゲームや交わりの時を持つことが出来た。
 二日目の子どもたちの沢遊びもできるかどうか心配したが、みんな元気一杯で出掛けて川で泳いだり遊んだり、子どもたちは大いに楽しんだようだ。
 老人組は車で近くの温湯(ぬるゆ)温泉にでかけ、ゆっくり温泉に浸り、また、休憩室では話に花が咲いた。
 大人の語り合いは、今回は「青年伝道」と「老人の牧会」の二つに絞って、初めに発題をして頂き、それをもとに二グループに分かれて話し合った。時間が足りなかったが、それなりの良い語り合いができたと思う。私の出た青年伝道のグループは、それぞれ一言ずつ全員が発言して大変有益であった。

 改めてファミリーキャンプの目的は何だろうかと考えてみると、子供と大人が一緒になって神の家族であることを確認することではなかろうか。大人だけの修養会ならば、もう少し突っ込んだ話し合いや学びの時が持てるだろう。それはそれでもちろん意味がある。しかし、ファミリーキャンプには、そこにはない良さがある。みんなが童心に返って子どもたちと遊び、交わりを持つことによって、忘れかけていた家族の味を思い出したのではないだろうか。最後の発表と報告の時も、大人も子供も一緒になってそれぞれが何をしたかを聞き合い、とても良かったと思う。子どもたちの司会もなかなかしっかりしていて感心させられた。
 朝の礼拝では、M兄からノアの虹の話を聴いた。開会礼拝では、静江牧師のチャーリーオレンジに思わず「可愛い!」という声も挙がった。他の団体の子どもたちと一緒の食堂は賑やかだったが、みんなで一緒に頂く食事は特別においしかった。夜もぐっすり休めて快適だった。来年がまた楽しみだ!  

2007年7月29日 (日)

何か新しいこと(7月29日)

    
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
 太陽の下、新しいものは何ひとつない。
 見よ、これこそ新しい、と言ってみても
 それもまた、永遠の昔からあり
 この時代の前にもあった。
        (コヘレトの言葉一・9、10)
 昔の賢者は、太陽の下、新しいものは何ひとつない、と言うのです。高いところから見ると、或いは、そうなのかなと思います。しかし、私たちは限られた身ですから、ひとりで知ること、経験することはごく僅かです。私たちにとっては、日毎のできごとがみな新しいとも言えるのです。
 夏を迎えて、子どもたちも夏休みに入りましたが、この夏、何かひとつでも新しい経験、新しい出会い、新しい取り組みをしてみたいとは思いませんか。そのような祈りをもって暑い日々を過ごしましょう。   
 きょうから今年も花山へキャンプに出掛けますが、昨年にはなかった何か新しいことを経験したいものです。来週は、また八幡平での夏期聖会ですが、「いつものように」ということも大事には違いないですが、今年は今年としての新しさを求めて参加したいと思います。神さまは、必ずそのような恵みを備えていてくださると信じます。
 私は、毎日朝夕に犬(ラビ)を連れて散歩をしていますが、殆ど同じコースを歩きます。ところが、ラビは毎日新しい道を行くかのように、喜々として何か新しい発見はないか、何か面白いものはないか(おいしいものは、かもしれない)と探しながら歩きます。よくも飽きないものと感心します。私はラビを見ていると、とかくマンネリに陥りやすい自らを反省します。聖書を開いても、そんな期待感を持って読んでいるだろうか、ただ習慣的に目を通しているだけではないかと反省します。生きる限り、新しい発見はあるはずだし、感動もあるに違いないと期待します。皆さんは如何でしょうか?  

2007年7月22日 (日)

教職アシュラム(7月22日)

  第32回教職アシュラムに初めて参加しました。以前から一度出てみたいと願っていましたが、その機会を得なかったのです。しかし、今回は私にとって一番出やすい日程でした。会場は練馬にあるカトリック(イエズス会)の「黙想の家」です。以前にも聖書学校の退修会(リトリート)で使わせて頂きました。しかし、H師は「あそこはもう御免だ」と、一度だけで敬遠されてしまいました。何故かと言えば、とにかく沈黙を守らなければならない事です。食堂でも沈黙です。6人ほどがテーブルに着きますが、黙々として食べます。廊下で会っても会釈だけです。私は気に入ったのですが、全体には好評とは言えなかったかも知れません。
 今回は全体で16名、こぢんまりしたアシュラムでした。しかし、沖縄から東北まで全国から集まりました。特に台風が通り過ぎたばかりの沖縄からよく出席されたと思います。中越沖大地震で交通が途絶えたため欠席の教師もありました。
 全体の責任を持たれたのは、各地のアシュラムを指導してこられた村瀬俊夫師です。久しぶりに師にお目にかかりましたが、すばらしいメッセージを語って下さいました。村瀬師のお話の中にイエズス会の創設者イグナチウス・ロヨラの事が出て、彼が提唱した「霊操」は「体操」に対する言葉であると初めて知りました。昨年スペイン旅行でロヨラが立てこもって祈りに専念した洞窟教会も見てきましたので、グッドタイミングでした。そこで、朝起きたらまず「霊操」をやろうと決心しました。6時からは毎朝公園で30分間、仲間と体操に励んでいますが、最近はラビ(犬)のために体操も思うようにできません。それよりも、朝の祈りの祭壇が崩れがちです。(最近は目覚めたら階下に降りる前に、まず静江と二人で祈ることにしています。)形はどうあれ、まず「霊操」だと思いました。体操よりも霊操が先だということです。この一つを学んだだけでも、アシュラムに参加して良かったと感謝しました。 

2007年7月16日 (月)

東北伝道会議(7月15日)

   先週の月~水、岩手県と秋田県の県境に近い錦秋湖で開かれた東北伝道会議に出席した。これはもともと、東北・奥羽で伝道する牧師たちが年1回集まり、お互いの伝道牧会の課題を出し合い祈り合う時が持たれるようになったのが始まりとのことで、今年は第40回となり、記念の年なので信徒の方も招いて伝道会議にしようと言うことになった。伝道会議としては第2回目で、第1回は17年ほど前に開かれたとのこと。

 今回は、信徒の方は数名の参加に留まったが、とてもよい証や報告をして下さった。そのお一人は盛岡のM医師で、御自分の救いの証から始めて、病院における現在の立場での伝道、また、「小さな命を守る会」の働き、ターミナルケアについて等、誠実なお人柄が滲み出るお話しだった。また、青森から来られたS兄は、ギデオン協会の働きについて、普段は耳にしない裏話などを交えて話された。
 分科会では、①幼児教育者の立場から、②市議会議員として、③おいしいメロンを栽培する方法、④揺りかごから墓場まで広く事業を経営する事業家、という4つの立場からの信徒の発題(もう一つは牧師の教誨事業)があり、それぞれ関心のあるところに出て語り合った。ここでも信徒の皆さんのそれぞれの働きと証が光っていた。

 集会は全体に明るく、賛美が力強く、東北の片田舎で地味ながら恵み溢れる集会が持たれていることに強い印象を受けた。今までは、東京とか大都市の集会に慣れてきたが、そういう集会とは一味違う温かい交わりに心打たれた。
 少し難儀したのは宿泊で、2段ベッドの寝室は狭すぎる。いくら質素にとはいえ、今の時代にどうかと思われた。もう少し施設を改善したら、もっと多くの団体に用いられるだろう。近くに鄙びた温泉もあり、合間にゆっくり体を温めることもできた。往復の車中での語り合いも楽しかった。ようやく自分も東北の牧師に少しばかり近づけた気がした。  

2007年7月 8日 (日)

ファミリーキャンプの課題(7月8日)

  ファミリーキャンプが近づいてきました。子どもたちと合同のプログラムは教会学校の教師会で考えて計画しています。そこで、大人のプログラム(修養会)をどうするか、担当の委員で相談しました。牧師の希望もあり、また、二年後には創立百周年を迎えるのですから、教会の将来のビジョンを語り合おうということになりました。

 そこで、参加者を二つのグループに分け、一つは若い人々のこと、もう一つは高齢者のことを考え語り合います。それぞれに二人の発題者を立て、率直に思うところを語って頂きます。それを受けて、参加者一同で自由なディスカッションをしましょう。伝道のことや牧会のことなど、いろいろ語り合う課題は多いのではないでしょうか。そのような語り合いの中から教会の将来像がかすかにでも浮かんできたらすばらしいと思います。
 今回は若い人々と高齢者とを取り上げますが、どちらでもない中間層はどうなのかという不満もあるでしょう。もちろん参加者が多ければ、中間層を考えるグループも欲しいのですが、今のところ参加者がさほど多くないので、二つに分けてちょうどよいと思います。中間層の兄姉には、どちらかの問題を考えて頂きたいのです。若者が若者のことを、高齢者が高齢者のことを考えるのではなく、教会がその両者のことをどう考えるか、そして私たちに何が出来るかを考えるのです。

 私が先日招かれた初雁教会は、十年以上も前から「初雁ビジョン21」という委員会を立ち上げて、二十一世紀に向かう教会のビジョンを語り合い、計画を立ててきました。二十一世紀に入って七年が過ぎましたが、計画通りに進んでいることと、そうでないことがあるでしょう。しかし、計画があるのとないのとでは大違いです。聖書も「幻なき民は滅びる」と教えています(箴言29・18文語訳)。
 本当のビジョンは上から来るでしょうが、私たちも考えなければならないと思います。  

2007年7月 1日 (日)

祝された特伝(7月1日)

  潮義男師を迎えての特伝は祝福のうちに終わった。去る祈祷会では、午後も夜も出席者から多くの感想と感謝が語られた。私も、それらを聞きながら感謝を新たにしたが、一言ここに感想を書くことをお許し願いたい。

 まず、全体に今度の特伝は恵まれたと思う。それは、特伝委員会の兄姉はじめ会員の皆さんが良く祈って準備して下さったからであろう。土曜日の午後も70名を越える出席者が与えられ、特に新しい方が多かった。来会者カードを書き残して下さった方も二日間で10名ほどおられ、それを見ると、新聞折り込みや新聞の広告を見て来られた方もあった。コンサートの場合はチラシや新聞広告の効果は今までもあったが、特伝の場合はさほどではなかったことを考えると、今回の特伝はそれだけでも恵まれたと言うべきだろう。今回も祈祷カードで祈られて、出席できなかった方々も多いが、その祈りは決して空しくは終わらないと信ずる。
 もう一つの特色は、今回は若い人々に一人でも多く出席して欲しいと願い、また、ヤングワーシップの賛美奉仕を土曜日にお願いして、何かしら新鮮さを感じたのではないか。「ああ、こういう賛美もあるのだ」ということを初めて知った方々もあったと思う。もちろん、賛否両論はあるだろうが、どうしたら若い人々を教会に招くことが出来るか(菅英美子さんのコンサートでさえ、30代以下の人はほとんど来なかった)、これはどうしても考えねばならない教会全体の課題である。ただ、反対するのではなく、ではどうしたらこの課題に答えられるかを共にお考え頂きたい。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言った使徒パウロのスピリットを私たちも持たせて頂きたい。
 ともあれ、特伝直前の5日間の集中祈祷に現れたように、全体に祈りの盛り上がった特伝だったと思う。これで終わったのではなく、ここから始まるのだという意識を持って、さらに祈っていこう!    

2007年6月17日 (日)

クリストファー・サン(6月17日)

  再びクリストファー・サン師(以下クリス)に会った。大阪から仙台まで飛び、空港から一人で教会まで来られた。新幹線で東京から来られた姫井雅夫師とここで落ち合い、すぐに3人でKKRのレストランに昼食をとりに行く。昼はバイキングで食べ放題だが、クリスが少食なので驚いた。がっちりした体格なのに、子どもの分量くらいしか食べない。和食がダメなのかと聞くと、和食は一番好きとのこと。しかし、この後に控えているカウンセリング講習会のことをしきりに考えている風だった。我々も、説教前には食事がのどを通らないことがあるので、無理に勧めることはしなかったが、各地で何千人、何万人のクルセードをしてきた彼とすれば、4、50人のカウンセリング講習会など何でもないと思われるのに、彼は一回の集会に全力投球する。そこが偉いと思う。こちらは姫井先生とおしゃべりしながら、せっかくのバイキングなのだからと食い意地張ってデザートまで食べたが、彼は慎ましく冥想していた。
 彼は、目下は日本伝道に全力を傾けている。しかし、それは彼の片思いの感が拭えない。彼を迎えてくれたのは首都圏と仙台圏くらいではないか。札幌や大阪、その他全国の教会に声を掛けてはいるが、それぞれの事情もあり、思うように伝道計画が進まないようだ。それでもめげないで日本伝道にアタックするところが偉いというか、頭が下がる。
 彼の説教は全く単純で、み言葉に百パーセント信頼して、み言葉をそのまま語る。カウンセリング講習会でもそうだった。午後の眠気をこらえて彼の話をじっと聞いていたが、稀に見る信仰の人という印象を改めて受けた。救霊以外に何も考えないと言っても過言ではないほど、救霊のために祈り、労している。我らの大先輩に笹尾鉄三郎師がいるが、いつも主イエスのことを思いつめていた人と聞いたことがある。それはクリスにも共通するところがあるのではないか。秋の伝道会のために、我らももっと祈らねばならない。 

2007年6月12日 (火)

夏期聖会・ファミリーキャンプ(6月10日)

  新緑の八幡平に東北・奥羽のホ群教会の牧師たちが集まって、来る8月6、7日に予定される東北夏期聖会について協議し祈る時を持ちました。今年はテモテへの手紙一を学ぶことになり、主題を「キリストのよき奉仕者」(主題聖句・4章6節)と決定しました。昨年に続き地元の牧師たちが説教を担当します。東京聖書学校のキャラバン隊も参加の予定です。私たちの教会からは毎年最も参加者が多いのですが、今年も祈りをもって参加しましょう。
 聖会に先立ち、7月29、30日、「国立花山少年自然の家」でファミリーキャンプが開かれます。これは教会学校の子どもたちと共に、自然の中で楽しい交わりを持ち、共に主を賛美する時です。楽しいゲームやキャンプファイヤーも予定しています。大人のプログラムには温泉めぐりもありますが、せっかくの一泊研修の機会ですから、私たちの教会に今求められていることを、共に自由に語り合う時も持ちたいと願っています。ファミリーキャンプ委員会、役員会にもよいプランを考えて頂きましょう。
 牧師の考えを述べれば、昨年はホーリネス信仰について語り合う時を持ち、限られた時間でしたが、有益であったと思います。今年は創立百年を2年後に控えていることでもあり、教会の将来への展望を語り合うことは如何でしょうか。特に、子どもたちや青少年への伝道は最も大切なこの教会の課題ではないでしょうか。壮年会や婦人会からの積極的な参加と共に、若い人々にも参加して欲しいと願っています。今から、日程を確保して頂きたいものです。また、教会からも参加費の補助をお願いしたいと思います。
 聖会もファミリーキャンプも、参加する前は少し億劫に思われるかも知れませんが、思い切って参加してみると、必ずそれだけの収穫はあります。2日くらいは過ぎてしまえばあっという間のことですが、そこに備えられた恵みに洩れることは大きな損失です。「時をよく用いなさい」と聖書も教えます。

2007年6月 7日 (木)

今回の特伝の特色(6月3日)

 6月を迎えましたが、教会では6月23日、24日に特別伝道集会を開きます。そこで、今度の特伝の特色について一筆します。
   
 今回は、講師に潮 義男先生をお迎えします。潮先生は、以前に私たちと関係の深い盛岡の舘坂橋教会の牧師でした。先生は京都のご出身で、早稲田大学でロシア文学を専攻した文学青年でした。東京聖書学校が淀橋教会から東久留米に移転する頃に入学してこられ、ピアノを弾いたり、文学書を読んだり、一味違う神学生という印象が残っています。
 盛岡では、ご高齢の大住三郎先生を援けて良い働きをされ、先生を天に送って、教会と幼稚園の責任を担い、その後、奥羽教区センター善隣館館長もなさり、数年前に西那須野教会に移られました。この教会で先生の賜物がよく発揮され、教会も成長してすばらしい伝道と牧会を続けておられます。

 今回の特伝のプログラムについて紹介しますと、土曜日は午後2時からの集会です。夜よりも午後の方が、皆さんが出やすいという委員会の判断です。音楽は、ヤング・ワーシップの皆さんが元気の出る歌を賛美してくださる予定です。新しい賛美に驚く方もあるかもしれません。
 日曜日は、午前の特別礼拝と午後の集会ですが、従来の午後の伝道会は取りやめました。その代わり、みんなで愛餐会をすることに致しました。潮先生を囲んでカレーライスでも頂きながら、楽しい賛美や懇談の時を持ちたいと考えています。新しい方や会員の家族、求道者なども、ぜひこの愛餐会に誘いましょう。伝道会よりも気楽に出席できるのではないかと、私たちは期待しています。潮先生に聞きたいことがあれば、遠慮なくお尋ねください。また、賛美も従来の讃美歌、聖歌だけでなく、若い人々の賛美なども取り入れては如何でしょうか。
そういうわけで、できるだけ教会の敷居を低くして、みんなが出やすい特伝をと願っています。どなたも、気楽にお出かけください。お待ちしています。

2007年5月26日 (土)

聖霊が降るときに(5月27日)

 今年もペンテコステを迎えました。教会を生かす聖霊よ、我らを満たし、支配して下さいと祈ろう。
   
 ペンテコステの主日を迎え、祈る弟子達に聖霊が降って彼らが新しくされ、ペトロの説教を聞いて多くの人々が悔い改めて主を信じ、その日に三千人ほどが洗礼を受けてエルサレム教会が誕生したということを新たに思い起こしている(使徒言行録2章)。これは遠い昔の夢物語に過ぎないのであろうか。
 主イエスの文字通り命を賭けた伝道も、三年間心血を注いで弟子達を育てようとした訓練も、もし聖霊の降臨がなければ実を結ばなかったと言える。使徒言行録に見る教会は、聖霊が生き生きと働く教会の本来の姿であり、以後二千年の教会の歴史は、そのような聖霊の働きのリバイバルを祈りつつ、浮きつ沈みつして今日に至ったと言える。
 ペンテコステの日に何が起こったのか。まず聖霊が注がれて弟子達が変えられた。それはペテロにおいて顕著だが、ペトロだけではなく、一人ひとりが変えられた。聖霊は十把一絡げでなく個人個人に働いて、一人ひとりを主の器に変えて下さる。
 今、聖書学校で学生たちと読んでいる「新約のきよめ」(トマス・クック)に、ムーディーの証が出ている。
「私は新しい油注ぎを得たいと、どれ程願ったことでしょう。私は、数名に毎週金曜日の4時に来て、一緒に祈ってくれるようにお願いしました。ああ、神がこの空虚な器を満たして下さるように、私は何と哀れに祈ったことでしょう。…そのとき、私はあたかも不思議な大きな力が私にのしかかってくるように感じました。私はホテルに戻ると、自分の部屋に入り『おお、わが神よ、あなたの手を止めて下さい』と、神の前に泣いて叫びました。神は、私が耐えられないほどに思われる満たしを私に与えて下さったからです。……」
 靴屋の職人だった彼が、驚くべき主の器に変えられたのは、この聖霊の注ぎが与えられたからである。この原則は昔も今も変わらないと信じる。「ただ、聖霊が降るとき」という約束が新しく信じられ、祈りが始まるときに、新しい神の業がなされることを信じる。「主よ、我らにリバイバルを」と祈ろう!

2007年5月22日 (火)

歴代の牧師たち(5月20日)

 アップが遅れました。
 当地は、新緑がきれいです。街路樹もすっかり新緑に包まれました。
   
 前号に、山口幸子、錦織博義共著「ホーリネスの流れ」(続編)から、当教会の初代牧師、野辺地天馬と五代目の山崎亭治について紹介した。そこで改めて「八五周年記念誌」を繙いてみると、両師も含めて歴代の牧師たちについて、資料に基づいて良く書かれてあることに感心した。これを読み直してみて思ったことは、当教会の牧師たちは、まず勉強家であったと言うことである。野辺地、山崎両師もそうだが、その外の先生方も皆そうだ。「神学がない」と批判されたホーリネス教会において、野辺地師をはじめ歴代の牧師たちは、その時代にホーリネスの伝道者、牧師としての(神学と言わなければ)高い見識を持っておられた方々だ。これは杜の都仙台の気風にふさわしいというべきだろう。
 二代目の綿貫満弥については資料がなく不明だが、三代目、菅野鋭、四代目、森五郎も勤勉な努力家だ。昭和八年のホーリネス教会の分離の時は、菅野は委員側でいわゆる五教授の一人、森は監督側につき、後に中田監督の後継者とみなされた人である。ホーリネス教会の貴重な資料となった「中田重治伝」出版のため、大きな貢献をしている。
 六代目の植松英雄もこつこつと勉強される方で、昭和15年に聖教会を離れて日本一致教団に所属し、日本一致神学校の教授兼生徒監として迎えられている。戦後も神学校の教師を務めながら、病床伝道、電波伝道に力を注いだという。
 七代目の中島代作師は多くの兄姉がご存じだが、戦後のホ群を代表する筆の人であり、各地の聖会に頻繁に招かれてホーリネスメッセージを語り続け、東京聖書学校ではなくてならない存在であった。
 また、我らのホ群の委員長・東京聖書学校長として中心的存在であった小原十三司師も、菅野鋭時代の補助者であった。
 このように見てくると、私たちの教会の歴代の牧師、福音使は所属したホーリネス系の団体を代表する人々になったとみてさしつかえない。 

2007年5月 7日 (月)

ゴールデンウィーク(5月6日)

 ゴールデンウィークが終わってしまって、こんなタイトルではピンぼけですが、お許し下さい。今年はのんびりと休日を過ごしました。皆さんは、如何でしたか?
 
 ゴールデンウィークも終わりですが、今年はのんびり休日を楽しみました。たまたま祭日が一週間ほどの中に重なったのでゴールデンウィークと呼ばれるようになったわけですが、一つひとつの祭日には意味があります。特に、今年はその意味を思わせられました。
 4月29日は今年は日曜でしたが、昭和天皇の誕生日でした。この日が「昭和の日」に変わり5月4日が「みどりの日」になったのですね。戦後60年が過ぎて、戦争を全く知らない世代が圧倒的に増えてきた今日、昭和時代に何があったのか、歴史の検証が大事だと思います。
 5月3日は「憲法記念日」です。今、憲法改正の動きが顕著になってきました。憲法は絶対に変えてはならないというものではありませんが、何のために変えようとしているか、その意図が問題だと思います。安倍首相の普段の発言から考えて、この人の下で憲法を改正するのは危険だと感じます。日本がどれほど大きな過ちを犯したか、ただ戦争に負けたということだけでなく、アジアや世界に大きな負債を残しました。その代償として得ることが出来たのが現在の平和憲法です。これは世界に誇り得るものと信じます。まずこのことを私たちの共通の認識にして出発することが大事だと思います。最近のイラクや北朝鮮の問題を論ずる人々の口に、時には戦争も辞さないという発言を耳にすることがありますが、とても危険な考えと思います。それだけに、平和憲法の存在が大きな意味を持つでしょう。
 「みどりの日」「子供の日」もそれぞれ今日的な意義があると思います。地球の環境破壊が進む今、地球の緑を守ろうという意識は経済の発展と同様に重視しなければならないでしょう。そうでないと、地球は今のままでは破滅に向かうという危機感がつのります。また、少子化対策が言われていますが、子どもの人権を守り、弱い者が大切にされる社会を作ることが先ではないでしょうか。いろいろ考えさせられることの多い今年のゴールデンウィークでした。 

2007年4月28日 (土)

東京聖書学校新年度始まる(4月29日)

 東京聖書学校も新年度が始まりました。入院する教師や海外に出張する教師もあり、なかなか軌道に乗らないのですが、私もようやく第一回目の授業に行くことができました。そのことを書きました。
 
 去る入学式を前にして青木惇子姉が天に召され、続いて三浦誠兄が召されたので、年度の初頭から授業を休講にしてしまいましたが、いよいよ27日から私の担当する授業が始まりました。今年度は基本的には金曜日を日帰りでと考えています。
 朝6時の新幹線に乗ると、9時からの授業に悠々間に合います。4時間半の授業を終えて急いで帰れば3時20分頃大宮発の「はやて」に間に合いますから、5時には帰宅できます。ちょっと余裕を見ても6時には帰れます。昔、中島代作先生が月一度上京されて、しばしば私たちの所に一泊され、集中講義をしておられた頃とは隔世の感があります。
 昨年度までは、隔週で木、金と授業をしていました。それで3年間やってみたのですが、隔週というのも難しいものです。今年度は以前のように毎週に戻して頂き、とにかく1年間やってみようと思います。学校に泊まらないので、荷物が教科書だけですから、駅の移動も身軽でとても楽です。学校には立派なゲストルームがありますが、やはり我が家に寝るのとは違います。まだ、一回だけですが体が楽だなと感じています。ただ、交通費がかかります。「大人の休日倶楽部」の会員になり3割引はありがたいですが、それでも一回1万5千円ほどかかります。それだけの交通費をかけるに値する授業をしているかと自問すると、内心忸怩たるものがありますが、一年間はお許しを願って、青葉荘教会としても個人としても精一杯学校に献げたいと願っています。ご支援をよろしくお願いいたします。
 学生たちは半減して寂しくなりましたが、それぞれに張り切って授業に臨んでいます。説教演習ではトップバッターで4年生のI兄が説教しましたが、昨年度とは見違えるような成長ぶりに驚きました。聞いてみると、昨年度は日曜の派遣教会で、毎月一度礼拝説教を担当させられたとのことです。これは例外的なことですが、顕著な成長も肯けます。どうぞ、学生たちのためにもお祈り下さい。     

2007年4月23日 (月)

三浦 誠兄の召天(4月22日)

 またまた、短文の更新を忘れるところでした。このところ、色々なことが続いて、普段のペースを取り戻せない感じです。きょうは私たちの敬愛する三浦誠あにのことについて一筆しましたので、ご紹介します。
   
  三浦誠兄は寡黙な方でしたから、お話しをお聞きした記憶がほとんどありません。ところが、この度のご召天と葬儀を通して、故人のことをいろいろ新しく知ることができました。特に、1997年に自費出版された「南十字星を偲んで」という立派な本があることも今回初めて知りました。これは、「南十字星の下、トラック島で散った戦友に捧ぐ」という内扉の言葉に分かるように、故人が生涯心に抱き続けてきた前大戦の記憶、特に、戦死した戦友や部下たちのことがあり、遺骨収集や墓参にも努めてこられましたが、喜寿を迎えた年に記念出版して後世にしっかり書き残しておきたいという意図がありました。
「まえがき」に、
一、大東亜戦争が終わって既に半世紀も過ぎ、今ここに回顧し「南十字星を偲んで」を書くことは、小生喜寿の記念でもあり、誠に意義深いものがある。
二、本書の目的は、この戦争が何故起きたのか、その原因と戦闘経緯、そして敗戦の理由、及び戦争を防止する方法は何かを主眼に記録した。
三、本書は更に、自分の戦争体験として、朝鮮の羅南師団から、南方のトラック島における戦闘の経験も記入した。
四、この「南十字星を偲んで」は、後世の子孫のため参考になればその念願は達成され、更に少しでも世界の恒久の平和が維持できれば本懐とするところである。

 これは前大戦の生き残りの一人の貴重な記録です。実際に経験した人とそうでない人とでは、言葉の重みが全く違います。皆さんもぜひ手にとってご覧になることをお奨めします(教会図書にある)。また、皆さんも「自分史」を書くなり、何か家族や教会の兄姉に書き残すことがあるのではないでしょうか?

2007年4月14日 (土)

めまぐるしい一週

多忙に追われて、短文を更新するのを忘れていました。
4月8日は、もう過ぎてしまったので、15日のをアップしましょう。
   
 めまぐるしい一週間でした。月曜から水曜まで市川においてホ群の年会が開かれ、全国から教職、信徒が集まり、聖会・事務会その他が行われました。年会のハイライトは、二日目夜の派遣式ですが、今年は九名の教師達が新たに教会に遣わされました。その中七名は東京聖書学校の卒業生です。他に二人の教師の異動がありました。
 ところが派遣式を前にして、教会の青木惇子姉が召天されたとの連絡が入り驚きました。仙台と連絡をとりながら、静江牧師が急遽帰ることにいたしました。本来なら葬儀のために両牧師がすぐ戻るところですが、年会での責任に加えて木曜の聖書学校入学式の説教があり、これは誰かに替わってもらうことも難しく、ご遺族に願って入学式が終わるまで待って頂くことにいたしました。
 青木姉の病状については、かねてT姉から伺ってはいましたが、3月18日まではお元気に礼拝、祈祷会に出席しておられましたから、もう少し先と思っていました。しかし、すべてのことに時ありで、神さまの最善の時だったのでしょう。青木姉は、以前に葬儀のために全員にお願いしたアンケートにきちんと答えて下さり、また、八五周年記念誌にも一文を寄せておられますから、葬儀の折には大いに助けられました。前夜式、葬式共に大勢の参列者がありました。特に、孫達から慕われておられたことがよくわかり、また、葬儀において語られた故人の思い出、弔辞は心に沁みるものでした。「青木さん、最後までご苦労さまでした」と感謝を申し上げます。
 金曜日は、火葬場から戻ってすぐに青年文化センターに駆けつけました。教職たちの準備祈祷会と会食、宮城中地区牧師会聖歌隊の練習と続き、本番は7時からでしたが、私が司会を命ぜられ、風邪声でご迷惑でしたが何とか責任を果たすことができました。クリストファー・サンの説教は力強かったが、長かった。それでも、数名の決心者も起こされ、9時を少し回りましたが、共に祈って秋の伝道会に期待したことでした。

2007年3月31日 (土)

初めての説教(4月1日)

  棕櫚の主日を迎えて、礼拝では主イエスに高価なナルドの香油を注いだ女のことを学びますが、実は、このところは私にとって忘れられない個所です。というのは、私の説教ノートⅠの①に「ナルドの香油」という説教が記されています。これは私の補教師検定試験の説教課題が、この所であったのです。ですから、説教なるものを初めて書き、中島代作先生に見て頂いて提出したのがこれでした。先生から「これを夕拝で説教しなさい」と言われて、この教会で初めてさせていただいた説教でもあります。ざっと40年も前のことです。しかし、あの時私の拙い説教を聞いて下さった方が何人もご健在なのはうれしいことです。
 これを読み返してみると、今の説教とあまり変わっていないと思います。40年間ほとんど進歩がなかったと言えば寂しい感じもしますが、説教の主体は聖書であるはずですから、そんなに変わってはおかしいとも言えます。ただ、語る人間は40も歳を取ったのですから、説教そのものは多少は変わっているでしょう。
 しかし、説教というものは不思議なもので、その歳でなければ語れないものがあります。若いときは、いろいろな面で未熟ですが、若いからこそ語ることが出来ることがあり、それを神さまは用いて下さるでしょう。また、熟年にならなければ、語れないこともあります。若い頃から、私の牧師はみな熟年の方々でしたから、若い牧師の説教を殆ど聞いたことがありません。わずかに、この教会に来て、当時伝道師であった中島豊先生の説教を夕拝で聴き続けたことと、西川口教会で、金田佐久子牧師の説教を聴くことができたくらいです。中島豊先生はその頃、旧約のナホム書から連続講解説教をしておられました。今、中島豊先生はすでに隠退され、私も歳を取りました。そして、私の説教ノートも60冊を超えています。ここにいくつの説教が書かれてあるか数えることも出来ませんが、きょうはその第一の説教を読み直し、初心に返ってみ言葉を取り次がせて頂きたいと願っています。   

2007年3月24日 (土)

レントの奨め(3月25日)

  アメリカのあるカトリック教会で「レントのすすめ」12箇条が2週連続で教会の週報に出たとのことです。私たちにも参考になるので、以下にお借りします。

1.4月5、6、7日、3日間全部をここか、よそでもいいからカトリック教会に行けるようにあけておく。
2.(ゆるしの秘蹟について、省略)
3.今この時たがいに愛しあうことによって神への愛を増す。
4.全員、日々の生活からゴシップを排除する。
5.全員、何か大切にしているものを他人に与える。
6.全員、際限なくおしゃべりするのをやめて、もっと健全にハッピーに会話する。
7,生活の場に十字架と静寂のある祈りの場を確保する。
8.全員、新しい友達をつくる。全員、こわれた関係を修復する。
9.全員、私たちのまわり(近くでも遠くでも)にある苦しみに目を開き、癒しを試みる。
10.自分が洗礼をうけた日がいつかを知り、喜ぼう。
11,イースターに受洗する人を覚えて祈る。
12.全員、祈る。教会のため、教皇、司教、修道者、助祭、司祭のため、父親、母親のため、シングルペアレントのため、苦難のなかにある家族のため、子供のため、お年寄りのため、孤独なひとのため、ホームレスのため、囚人のため、迷っている人のため。そして全員、赦しのために祈り、神が赦してくださる時それをうけいれる。神はいつ赦してくださるか???「今」です。そして「いつも」です。

(注)4月5日は洗足の木曜、6日は受難日、7日はイースターの前日(準備の日)です。
 プロテスタント教会では、「克己」が強調されますが、このレントのすすめは、互いに愛し合うという、より積極的な面が強調されています。   

2007年3月17日 (土)

神の憐れみを受けて(3月18日)

  4月の教会総会に備えて、資料作りに入っていますが、牧師が書かねばならない大事なことは、一年間の反省と、新年度の計画です。まず、過去の一年間の歩みを振り返って心に浮かんできたのは「神の憐れみ」という一句です。正に、憐れみによってこの一年も守られたという感謝です。足りない点は沢山ありますが、神の憐れみがなければここまで来ることが出来なかったでしょう。
 使徒パウロは何度も、このことを手紙に記していますが、特に思い起こすのはコリント二 4・1のみ言葉です。「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」口語訳では「憐れみを受けてこの務めについている」でした。
 安倍豊造先生がご健在だったとき、祈祷会で先生がこのみ言葉を静かに語られました。それがとても印象深く、私の心に刻まれました。ただ神の憐れみによって主のご用に当たらせて頂いているのだということを肝に銘じたのを忘れません。あれから三十年以上が過ぎましたが、み言葉の真実をいよいよ深く思わされております。主の助けがなければ、あのこともこのこともどうだったろうかと思わされて、主の前に頭を垂れるばかりです。
 同時に、み言葉の最後にある「落胆しません」も大事な一句です。どんな局面に立たされても、自分は落胆しないぞという決意の響きも感じられます。事実、ただ神の憐れみによるのだから、落胆する理由がないのです。自分がやるのなら、失敗すれば落胆します。自分の非力が悔やまれます。しかし、主のご用は主ご自身が進めて下さるのです。ですから、主に信頼して、主に従っていけばよいのです。そこで、私たちに求められるのは「信仰」です。「もし信じるなら、神の栄光が見られる」(ヨハネ11・40)のお言葉の通りです。不信仰を悔い改めて、新しい年度、さらに主の栄光を拝させて頂きたいと願います。どうぞ、このために祈って下さい。  

2007年3月 3日 (土)

東京聖書学校卒業式(3月4日)

 卒業シーズンですが、私たちの小さな神学校の卒業式もありました。週報短文にそのことを報告しましたが、最後のところをちょっとカットしてアップしましょう。ホ群の先生方は、あえてお名前を出させて頂きます。悪しからず。  
 東京聖書学校の卒業式が2日に行われ、今年は最近になく8名(男4女4)が卒業するので、家族や関係者など百名近くが式に参列くださり、チャペルは満杯でした。山岡磐師の説教、また、教団教師委員長のM師から祝辞を頂きました。在校生の合唱の後に卒業証書を授与しましたが、八人の卒業生の笑顔と涙を見て、こちらも万感胸に迫るものがありました。式の後に校舎の前で記念写真を撮り、お昼の食事を共にして感謝会をいたしました。食堂のテーブルに皆がよく着くことができたと思います。お祝いの言葉は、八束潤一ホ群委員長、原田謙師、学校後援会から鈴木優子姉、その他関係者からも励ましの一言があり、最後に八人の卒業生の挨拶は一人ひとり味わい深いものでした。
 実は、卒業式の前夜に、学生たちのお別れ会が近所の韓国料理店であって、舎監のお二人と私も招かれ、在校生が卒業生に、卒業生が在校生に贈る言葉が語られたのですが、これはすばらしい一時でした。寝食を共にした者同士でなければ知り得ない深い心の交流があったことを思わされ、改めて聖書学校の良さを見せて頂き感謝しました。今年は数日前から泊まり込んでいたために、思いがけないプレゼントをもらったような喜びでした。

 

2007年2月26日 (月)

恥ずかしい昔話

コンベンションのことが続きましたが、恵まれた後には、大抵何か事件(?)が待っているというのが
今までの経験でした。今回も、そうでした。いきなりほっぺたを殴られるようなことが起こり、「神さま、
これは一体どういうことでしょうか」という思いでしたが、その件はまだ未解決です。祈りつつ、推移を
見守っています。他に、思いがけないことが二つありましたが、一つは大体良い方向に向かっています。
もう一つは、どのように導かれるか、神さまの御心一つと思っています。

 一つだけ、昔話を書きましょう。結婚して、まだ日が浅かった頃、大変恵まれた聖会に出席して、
意気揚々と帰宅しました。そして、留守番をしていてくれた妻に、何か報告したのでしょう。ところが
その時の私の一言に妻はひどく傷ついたようでした。私は全く気づかなかったのです。夕方になって
妻が帰らないなと思っていたら、テーブルに書き置きがあって、「しばらく家に帰らせて頂きます」と
あるではありませんか。私はあっけにとられてしまいました。
その後、妻を迎えに行ったかどうかは記憶が定かでありませんが、多分妻も母に諭されて帰ってきて
くれたから、今日があるのでしょう。数えてみると、もう37年になります。今年くらいは結婚記念日に
花の一本も買ってこようかと密かに考えています。
妻の名誉のために言いますが、家に戻ったのはその一回だけでした。また、榎本先生は「恵まれた」
なんて家では言わないで、黙って家族に親切にせよと忠告してくれましたが、本当だと思います。
言葉だけの証しは力がない、いや、かえって躓きになるということでしょうか。

2007年2月19日 (月)

祝されたコンベンション(2月18日)

久しぶりに週報短文を、そのまま載せることにしました。昨日は、臨時教会総会も無事終わり、今春の伝道師招聘を正式に決定しました。ほっと一息ついています。ケズィック・コンベンションも祝されて終わり感謝でした。

 昨年の箱根におけるケズィック・コンベンションで、峯野委員長は「来年は東北でもコンベンションを開きたいと願っています。島先生、ちょっとお立ちください」といきなり私を紹介され驚いた。そういうこともちょっとは耳にしていたが、地元では何も相談されていないし、時期尚早ではないかと合点がいかなかった。ところが、夏頃から一部の牧師たちが自主的に集まって東北のコンベンション開催について相談が始まった。私にも声が掛かったが、他の予定と重なって出席できず、クリスマスが終わってようやく委員会に出席したが、集まる者は数名に過ぎない状態だった。こんなことで果たして開会できるのだろうかと半信半疑であったが、中央からチラシやポスターが送られてきて、事務局は東北6県と新潟県の諸教会に郵送したとのことであった。
 さて、蓋を開けてみると東北各地から、特に秋田、山形、また青森からも参加申し込みが相次ぎ、この分では会場の婦人会館で果たして大丈夫なのかと逆に心配される程になった。実行委員長の行川先生も、これは驚いたと嬉しい悲鳴であった。
 ところが、大会会長をお引き受けくださった小助川次雄先生は、実は18年前から東北での開会を願って祈っておられたとのこと、そういうことだったのかと初めて合点がいった。青葉荘教会で開かれた早天聖会第一日目に小助川先生がメッセージに立たれ、ケズィック・コンベンションへの熱い思いを語られたが、感銘深いお話であった。先生は秋田のルーテル同胞教会の牧師で、私たちのいわゆる「きよめ派」の立場とは違うが、ケズィック・コンベンションは教派の壁を超えて「聖書的・実践的・個人的きよめ」を求める聖会として130年以上の英国での歴史があり、日本でもその伝統を受け継いで今日まで来ている。関東や関西では開始されて半世紀近くになり、ややマンネリ化のきらいが感じられないでもないが、今度は東北から新しい風が吹いて、全国の大会を活性化できたらと祈らされた次第である。    

2007年2月11日 (日)

第1回東北ケズィック・コンベンション

きょうから第1回東北ケズィック・コンベンションが始まりました。箱根では46年になるでしょうか、
北海道でも40回を超えたのではないかと思いますが、なぜか東北では今まで開かれませんでした。
それが、突然のように今年から開かれるようになりました。しかし、突然ではないのでしょう。
「水を汲んだ僕は知っていた」という聖書の言葉通り、誰かが隠れたところで真剣に祈って下さった
のでしょう。
きょう会場に参りましたら、事務局のO先生が「申し込みが212名になりました」と言われて驚きました。
さらに明日はもっと増えるでしょう。会場に座りきらないほどの人々が溢れるかも知れません。
駐車場も全く足りないので、近くに有料駐車場もありますが、思い切って「末日聖徒イエス・キリスト教会」
(モルモン教会)の駐車場を貸して頂くことにしました。交渉に参りましたら、先方は大変好意的に
貸して下さいました。貸借料などは要らないと言われるのです。ご厚意を感謝しました。
第1回ですから、いろいろハプニングも起こるでしょう。どんなことが待ち受けているか、むしろ楽しみに
待ちたいと思います。
明日は、6時から早朝の聖会が、私たちの教会で開かれます。遅くとも5時には起きて、皆さんを迎える
準備をしなければなりません。今晩は、早めに休むことにしましょう。

2007年2月 3日 (土)

環境問題をどうする?

先週は「沖縄の桜」について書きました。桜の花で思い出すことは、北海道の桜は、花と葉がほとんど同時に開くと記憶します。いつか、初めて本州の桜を見たとき、花ばかりだったので驚きました。
私は、近所の公園の桜を楽しみにしていますが、昨年はなぜか花だけでなく、葉が多いように思いました。北海道の桜のような感じでした。同じ桜でも、気候によって微妙に変わるのでしょう。それが植物と気候の関係ではないかと考えます(桜ばかりでなく、北海道の春は、いろいろな花がほとんど同時に咲くのですね。それは見事です。)
しかし、環境に左右されるのは、植物ばかりではありません。人間もそうだと思います。
今日の、恐ろしい出来事を思うにつけ、どうしてこんなことが次々に起こるのか、世の中は一体どうなったのかと心配でなりません。どこかがおかしいのではないか、狂っているのではないかと、みな感じているでしょう。これも大きく言えば、私たちの生きる社会(環境)が、こういう事件を引き起こしていると言えます。
しかし、環境を変えるというのは本当に難しいですね。地球の温暖化一つ取り上げてみても、産業構造を変えてしまわなければ、抜本的な対策は打ち出せないでしょう。でも、一旦回り始めた歯車を元に戻すことはまず不可能に近いと思います。では、なるようにしかならないのか。
私たちは愚かで罪深いですから、私たちだけならばどうしようもないかもしれません。しかし、私たちは神を信じておりますから、助けは上より来ると信じています。「神さま、どうしたらよいのでしょうか」と祈りつつ、今日私は隣人と共にどう生きるか、一足一足神さまに聴きながら進む他はないと思います。皆さんは、如何ですか?

2007年1月27日 (土)

沖縄の桜

数日の出張とその準備に追われて、短文をアップするのを忘れていました。自分のホームページを開くこともできずにおりました。この拙文を読んでくださる方には、失望させて申し訳ありません。
また、一般に公開できない短文が続いていますので、ここには雑文を記すことをお許し下さい。
先日、NHKラジオ放送の深夜便を聞いていましたら、今年は全国的に暖冬ですが沖縄でも例外でなく、初夏のような日よりもあるそうでうが、そのために桜の開花が遅れているそうです。エッと思いました。沖縄の桜は、本土とは種類が違うそうですが、種類の違いではなさそうです。その訳は、桜は、ピリッとした寒さが来ないと(つまり冬の寒さを経験しないと)開花しないというのです。これは耳寄りな話を聞いたと思いました。ですから、沖縄では、桜の開花は北から南へ、つまり桜前線は南下するとのこと、山で言えば山頂から開花して麓へ下っていくのだという珍しい話を聞きました。沖縄の方、本当でしょうか?(確か宮川泰夫アンカーが紹介しておられたのだから、間違いないでしょう?)
昔、確かバーナリゼーションということを聞いたように思います。それは、チューリップの球根でも、冷たい冷蔵庫かなにかに貯蔵して温度を下げないと、美しい花を開かないというような話でした。ですから、わざと温度を下げることをバーナリゼーションというのだというような話でした。これも、先の桜の話によく似ているではないですか。植物はそういう性質を持っているのですね。
これは聖書的だと思います。人間もそうではないでしょうか。神さまは、私たちを恵んで美しい花を咲かせるために、あえて冷たいところを通らせられるのでしょう。「傷なきは人材に非ず」という言葉が好きなパスターハリーのことも思い出します。「パスターハリーってだれ?」と言う方は、ホームページで検索してください。きっと分かると思います。きょうは、ふとラジオを聞いた感想文を記しました。皆さんどうぞお元気で!

2007年1月13日 (土)

冬の札幌へ(1月14日)

  札幌の2番目の姉が手術をすると聞き、お許しを頂いて見舞いに行ってきました。ある方々には姉のためにもお祈りを頂き、ありがとうございました。お陰様で手術も守られ、術後の経過も良いようで、見かけは元気そうでした。上の姉も80歳を過ぎてホームにおりますが、こういう事でもないと、兄弟がみんなで集まることも難しくなりました。
 冬の札幌は久しぶりで、前回がいつであったか思い出せないくらいです。20年は行ってないように思います。ところが今年は札幌も暖冬で、正月には雪がなかったそうですが、先日の低気圧でようやく雪が積もって、昔懐かしい冬景色でした。しかし、雪祭りの雪像作りには雪が足りなくて、遠く中山峠から雪を運ぶとか聞きました。目下、大きな雪像の木枠造りが進んでいました。
 水曜には、母教会の午前の祈祷会に出席し、短く奨励もさせて頂きました。懐かしい姉妹たちに会って感無量(男性は岡田先生と兄だけ)。皆さん、高齢になったなァというのが率直な感想です。私のために皆さん一言ずつ語って下さり、その短い感話からいろいろ連想したり思い出したり、本当に楽しい時を感謝しました。もちろん心を合わせて幸いな祈りの時も持ち、時間が超過してお昼に食い込んでしまい申し訳ないことでした。午後には、兄姉たちと病院の姉を訪ねることができました。
 その外に、中学時代の親友の母上(96歳)が骨折して入院中と聞き、お見舞いに行くことができましたし、高校と大学の同期生たちが、それぞれ何人か駆けつけてくれて、久しぶりに旧交を温めました。みんなそれぞれの人生をここまで生きて、味のある顔になったと感慨深く思いました。
 今回は東京聖書学校の授業に会わせて、東京からのツアー(航空券とホテルがパックになっている)で申し込んだので、快適なホテル付きで申し訳ないくらい安い費用で行くことができたのも感謝でした。以上、個人的な事ながら感謝とご報告まで。   

2007年1月 6日 (土)

新年の新たな二つの計画(1月7日)

  新年を迎えて、今年はどのような年になるか、神さまがどんなみ業を行って下さるかを楽しみにしています。神のご計画は誰も分かりませんが、私たちが計画していることもあります。きょうはその中から二つのことを書きましょう。
 一つは今年始まる「東北ケズィック・コンベンション」です。この名前は耳にした方も多いと思います。ケズィック・コンベンションは、百年以上も前から英国で開かれている伝統ある聖会です。英国のケズィックという美しい水と森の地方で、数千のキリスト者が集まって、天幕の中で聖会が開かれると聞きました。この聖会のすばらしさに触れた人々が、是非日本でも開きたいということになり、箱根で開かれたのが四十数年前で、以来全国各地で開かれるようになりました。しかし、東北奥羽だけは開かれず今日に至りました。時が来て、いよいよその第一回が仙台で開かれることになったのです。
 日程は2月11日(日)夜から13日(火)午後まで8回の聖会が教会のすぐ近くのみやぎ婦人会館で開かれます(早天聖会だけは当教会で)。主講師はデビッド・オルフォード師、他にヘザー・オルフォード、峯野龍弘、村上宣道、小助川次雄、行川孝夫の各師です(ご存じのお名前もあるでしょう)。近くチラシ、ポスターが来ますからご覧ください。

 もう一つは、昨年もこの教会に来られたクリストファー・サン師の伝道会です。昨年は信徒大会でしたが、今年は求道者や新しい方々のために、青年文化センター・シアターホールを借りて10月19日(金)夜と20日(土)午後を予定しています。著名な音楽ゲストも招く予定です。
 どちらも初めての試みなので、数名の牧師たちが手探りで準備を進めておりますが、このことが主の御心にかない、大きな恵みの集会となることを祈って参りましょう。これはどちらも超教派の集会ですから、これから賛同する教会、出席する兄姉たちがまし加わるようにお祈りください。              

2007年1月 1日 (月)

新年の標語聖句(元旦)

 新年おめでとうございます。よき1年となりますよう、主の恵みを祈ります。
教会では、毎年、1年の目標となる標語聖句を定めます。2007年の聖句について、週報短文に書きましたので、以下に記します。
   
 新年は次の聖句を標語聖句に定めた。
 「キリスト・イエスの心を心とせよ。」(フィリピ2・5、文語訳)
 なぜ、古い文語訳をわざわざ持ってきたのか。それは、他の訳と比べてみればわかる。まず、新共同訳では「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」                      口語訳では「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。」
 直訳を試みると「このことをあなたがたの心の中に考えよ、それはキリスト・イエスのうちにもあるものです」と訳すことができる。
 詳訳聖書を見ると、「キリスト・イエスにあったのと同じ態度(目的、謙虚な心)が、あなたがたにもあるようにしなさい(キリストをあなたがたの謙そんの模範としなさい。)」
 新共同訳も口語訳も直訳に近いが、文章としては長すぎてぴりっとしない。それに比して文語訳は、いっぺん聞けばすっと心に飛び込んできて、すぐに暗記することができる。そして、意訳ではあっても間違ってはいないし、使徒の言わんとするところをよく捉えた優れた訳と言えるのではないか。そこで、役員の兄姉とも相談して、文語訳を新年の標語聖句とさせて頂いた。
 キリスト・イエスの心を我が心とせよとは、いかにも遠大な目標ではあるが、迎える一年間、折にふれて「キリストの心は何か」と考え、思い出してはみ言葉を反芻しつつ、少しでもそこに近づく年でありたいと願っている。                

2006年12月25日 (月)

愛の鞭の一言

 クリスマスも恵みのうちに終わりました。今週は、いつもの週報短文の代わりに、教会の月報「いこい」12月号の巻頭言を載せさせて頂きます。私にとっては忘れられぬ一言です。    
                 
 昨年の十二月号にはクリスマスの思い出を書かせていただきました。今回は、受洗した高校一年のクリスマスの続きを書きましょう。
 その年(1955年)は12月25日が日曜で、もちろんその日の午前にクリスマス礼拝があり、その礼拝で日曜学校の仲間と共に受洗の恵みに与りました。25日の夜には、毎年大人と子供合同のクリスマス聖会(祝会)がありました。その頃は子どもたちも大勢で、とても椅子には座りきれないので、会堂の前方にゴザを敷いて、子どもたちはそこに座りました。森さんという日曜学校の先生のお話は天下一品で、毎年同じような話を繰り返し聞くのですが、皆それが一番の楽しみでした。最後にプレゼントも頂いて、子どもたちは目を輝かして帰ったものです。
 さて、25日の次は元旦が日曜になりますが、母教会では毎年除夜の祈祷会が31日の深夜に行われました。両親が出席するので、いつもは家で留守番をしていましたが、今年は自分も洗礼を受けたのだからと、出たことのない祈祷会に初めて出席しました。北国の夜ですから寒いです。大きなストーブを真ん中に、多分20名ほどの者たちが集まったと思います。集会が始まる前に、熱いおしるこが振る舞われ、皆でおいしくいただきました。
 時間になると伊藤馨先生が、「それではこれから年末の感謝会をしよう。今年感謝することのあった人は証してください」と言われました。そして驚いたことに、「まず、クリスマスに受洗した人から証してもらいましょう」と言うではありませんか。ドキッとして見回したら、受洗したのは七人だったのに、その夜出席していたのは確か私一人でした。
 「では、隆ちゃんから」と来ました(隆ちゃんとは私のこと)。私は、どぎまぎしてしまい、「できない」と言う勇気もなく、しどろもどろに何か考えていたことを話しました。その場はそれで済んだのです。ところが年が明けて二,三回目の礼拝でした。説教の中で次の言葉が耳に飛び込んできました。
「受洗してもこんなことを言う人がいる。これではものになりません。」それは紛れもなく私のことでした。その時は「なにを!」と思いましたが、それは先生の愛の鞭の一言だったでしょう。その言葉を肝に銘じて今日まで歩んでくることができたことを感謝しています。

2006年12月15日 (金)

老年は内面性の成長期(12月17日)

 たまたま、心に留まった一文を眼にしましたので、ご紹介させていただきます。
以下は、アブラハム・ヘシェルの本からの抄訳です。へシェルは20世紀の著名なユダヤ教の哲学者です。
 
 「人が変わり、成長する可能性は、私たちが思う以上に大きい。老年は停滞の年代と思われがちだが、むしろ内面性が成長する時期である。老人は病人のように扱われるべきではないし、その隠退を社会の第一線から長く退いてしまった状態とみてはならない。老年期こそ、それまでに感得しそこねた高い価値、身につけられなかった洞察力、顧みなかった叡智を得させる時だと言ってもさしつかえない。
 その時期は実に豊かな可能性をもった人格形成期である。長い人生で知らないうちに身についた愚行をやめ、生来の自己欺瞞の偽りを見抜き、人を理解し、思いやる心を深め、誠実な心の領域を広げ、公正さへの感覚を精錬することができるのだ。
 年輪を重ねた人は、大局的に物事を見、失敗の経験を積んでいるから、偏見と既得権益への飽くなき執着心を捨てることができる。その時に、もはや仲間を自分の前に立ちはだかる競争者と見ることはないだろう。
 老人のための大学が必要である。その教育の目標は、老人を忙しくさせておくことではなく、一瞬一瞬が偉大になるための好機である、と気づかせることにある。内面の純化は、少なくとも趣味や娯楽と同じくらい重要である。心の中から、憎しみ、恨み、嫉妬の残渣を取り除くことは、だれもが闘うべき確かな目標である。
 ほとんどの人は老年を迎える準備を青年期の日々になすべきだということを自覚していない。
 老年のために霊的備えをせよ。それをいかに深めるかを学べ。これは若いときから心すべき命題である。昔から、老いた者ほど叡智があると言われてきたが、まさしくそうだ。しかし、年齢は叡智の保証書ではない。格言に曰く、『賢い老人は年をとるに従って賢くなる。粗野な老人は、年をとるに従って愚かになる。』」
(アブラハム・ヘシェル著「The Insecurity of Freedom」より抄訳。)

2006年12月 2日 (土)

今年も記念礼拝を迎えて(12月3日)

 12月第1主日は、戦後復興した私たちの教会が最初の礼拝を捧げた日です。そのことを記念して教会では毎年「創立・復興記念礼拝」を捧げてきました。この礼拝を今後どのように続けていくかは、この教会の課題であると思っています。私も試行錯誤しながら3回目の記念礼拝を迎えますが、アドベントの第1主日でもあり、再臨の主を待ち望みつつ、示されたみ言葉を語りたいと思っています。
 以下は、この日を迎えての牧師の思いの一端です。これを教会のみなさんがどのように受け止めて下さるか、ご意見があればお聞きしたいと願っています。    

 今年も創立97周年・復興61周年記念礼拝を迎えました。創立百周年を一つの節目として、宣教二世紀に向かう備えをしたいと考えてきましたが、この一年の過ぎゆく早さを思いますと、三年後の創立百年も思いの外早く来るのではないかと思われます。そこで、当面の祈りの課題を申し上げれば、役員会では来春聖書学校を卒業する若い伝道師を担任教師に迎えたいと話し合ってきました。何としても、若い人々へのアプローチが必要であると感じてきたからです。そして、青年会の立て直しや、お隣りの青年・学生センターとの交流も可能になるのではと期待しています。
 それだけでなく、百年の歴史を持つとなれば、伝道所(子教会)を生み出す教会となるべきではないかという話し合いも委員会でなされました。富谷の伝道は、私たちの教会の長年の課題であり、現在も毎月応援に行っておりますが、富谷には富谷の事情もあって、現在は辺見先生が伝道と礼拝に励んで居られます。それならば富谷に限らず、しかるべき場所に新たに伝道することも考えられるでしょう。これも複数の教師の伝道態勢になれば、可能性は大きくなるのではないでしょうか。
 東北教区では、今日までの伝道態勢を維持することが困難になって、教会・伝道所の統廃合が課題になり、以前に提唱された伝道圏伝道が改めて見直されております。また仙台でも地区の再編がなされて、近隣教会の交わりが以前と比較するとはるかに密になったと聞いています。大都市への人口集中を考えれば、仙台市にはもっと伝道の拠点があっても良いかもしれません。私たちも、ただ自分たちのことだけではなく、地域の伝道を考え、地域の諸教会と祈りを合わせて取り組むことが求められていると思います。ともかく私たちの教会としても、ただ守りの姿勢ではなく伝道に打って出ることが、宣教二世紀への展望ではないでしょうか。      

2006年11月26日 (日)

聖書研究はどのように(11月26日)

 26日の日曜日は朝から忙しい一日でした。早朝から、会堂正面の樅の木(?)に兄弟たちがクリスマスの電飾をつけてくれました。これで来週からのアドベントに備えていつでも点火OKです。また、礼拝後は役員会とクリスマス委員会が同時平行して行われ、また午後2時からは中地区牧師会によるチャリティコンサート。昨年ほどではなかったですが、まあまあの出来だったのではないでしょうか。K牧師への献金も献げて頂き感謝でした。
今週の週報短文は、教会員へのメッセージで、ちょっと堅いのですがお許し下さい。   

 皆さんは、聖書研究がお好きですか?私が伝道者になろうと決意したとき、中島代作師の親友であった荒谷健市師から「君は、聖書研究が好きか?」と問われました。嫌いなら、伝道者になるのは止めなさいという忠告だったでしょう。しかし、これは伝道者、牧師に限らず、キリスト者はみな聖書研究(以下、聖研)が好きであって欲しいと思います。
 私たちの教会では、各例会や地区会で聖研がなされているようですが、どのようにされているでしょうか。担当者が注解書その他で調べてきたことを発表するのが普通のやり方ではないかと思います。しかしそれが、担当者本人やそれを聞く者に、本当に益になっているでしょうか、信仰が成長しているでしょうか、そこが問題だと思います。
 そこで、私の希望をここに書かせて頂くならば、まず聖研の担当者は、聖書の当該個所を繰り返し読むことから始めて欲しい。新共同訳だけでなく、他の聖書が手もとにあれば、それらを読み比べてみることも有益です。そして、何度か読む内に、書かれている事柄が大体分かってきます。それを自分の言葉で書いてみることもよいでしょう。また、分からないところはどこかをピックアップします。それを注解書で調べてみることも結構ですが、なるべく注解書は見ないで、「ここが分からないが、皆さんはどうですか?」と、尋ねる方がよいでしょう。さらに、自分の心に響いてきた言葉、特に印象深い言葉をピックアップします。また、自分の罪が示されたら、それも書きます。そして、それらに関わる神の約束は何か、自分はどう受け止めるか、また、示されたことをどのように自分の生活に活かしていくか、そこがとても大事なことです。つまり、単なる聖書の勉強ではなく、自分との関わりを語るのです。それが、聞いている者に、大きな示唆を与えます。そういう聖研こそ楽しいのです。参考書は、今度教会で買った旧新約の「スタディバイブル」1冊でも十分ではないでしょうか。如何ですか?    

2006年11月17日 (金)

小犬が来た!(11月19日)

  牧師館に小犬が来た。先日、S兄から電話があり、「中型犬の小犬が生まれたので、一匹もらってくれないか」とのこと。昨年ラビが死んで寂しくはなったが、ホッとする気持もあったのでどうしようかと迷った。吠える親なので、番犬にはなるだろうという。それよりも妻は、私の運動(散歩)のために良いのではないかという。一度見てみようかと翌日、S家を訪ねた。愛犬が何と7匹の子を産んだのである。白と、白に茶が入っているもの、白と黒のぶちや真っ黒いのまで可愛い7匹の小犬で、S兄自作の小屋は賑やかだ。結局、一番最後に生まれたという白にうっすらと茶が入っている雄をもらうことにした。まだ生まれて40日だから、赤ん坊のようなものだ。初めは外では飼えない。室内で育てられるように、サークル等一式を買い揃えて牧師館に戻り、早速サークルを組み立て、室内の片づけ。一応環境は整えたが、問題はこれからである。 
まだ赤ん坊で、母親や兄弟たちからも離されて寂しがって鳴く。眠っている時間も多いが、起きているときは鳴く。特に、夜は殆ど一晩中鳴いている。初めは鳴き声も小さかったが、だんだん大きくなって、けたたましい声で鳴く。夜は妻と交代で、だっこして寝ませ、そっと揺りかごに入れるが、また鳴き出す。それの繰り返しであった。
 二晩目も大差なく、私か妻の姿が見えればひとまず落ち着くが、二人ともいないと大騒ぎである。
 三晩目はどうか。やはり同じであったので、鳴いても心を鬼にして、サークルから出してやらなかった。ついに諦めたか中で寝てしまった。おかげで私たちも、三日ぶりにぐっすり眠ることが出来た。
 「雄ではなく、雌の方が育てやすいですよ」と忠告して下さる方もあったが、もう3日も飼ってしまったし、とにかくこれを飼うことに腹を決めた。
ラビ3世である。2世のように人を咬まないで、よい子に育って欲しいと願っている。どなたかS家の小犬が欲しい方はおられませんか?  

2006年11月11日 (土)

芸術の国、スペイン

いつもの週報短文は、プライベートなことが多すぎるのでここに書くことは遠慮し、もう少しスペインのことを書いてみましょう。
 スペインは芸術の国です。バルセロナでは、ガウディの名を何度も聞いて、いっぱしのガウディ通にでもなったような錯覚を覚えます。200年以上かかってなお完成していないサクラダ・ファミリア(聖家族)教会も、グエール公園(世界遺産)もガウディと切っても切れない関係にあります。至る所に、ガウディの独特な彫像や建築物を見ることができます。聖家族教会では、時間が十分ないのに、エレベーターで尖塔まで上ってみました。下界の人間が蟻のように見えました。ところが、帰りはエレベーターには乗れません。狭い螺旋階段を下りました。途中で、何度か休んで眺めを楽しむ場所があるのですが、我々には時間がありません。だから、目が回るような螺旋階段をひたすら下りました。ご高齢の杉山先生も、よく上られたと思います。
 バルセロナの町には、ガウディの設計になる奇抜な家がいくつかあります。「あれですよ」とガイド嬢が指差しても、バスがサッと通り抜けるだけで、ちらと目にした程度でした。
 もう一つ、バルセロナにはピカソ美術館があります。ピカソは10代の多くをこの町で過ごしたとのこと、プロの画家であった父上から絵の手ほどきを受けて、間もなく父上を越える絵を描くようになったのを見て、父も大きな期待を彼に抱いたようです。美術学校に進んでさらに腕をみがきます。10代の頃のピカソの絵が沢山ありますが、とても子供の絵とは思われない優れたものです。ピカソがあのような特有な絵画を描くようになるのは、ずっと後のことです。美術館をサッと見るだけで、天才の成長と変容が分かって興味深いですね。
 中世の町がそのまま残っているようなトレドの町は、美術家ならば一度は訪ねてみたいところでしょう。イサベラ女王とフェルナンド王の宮殿は、驚くべき建物で、その調度品の豪華さには圧倒されます。こんな部屋に生活していた人もいたんだと、何か滑稽な感じさえしました。ガイド嬢によれば、全部で2800室と言いますから、中で迷ったら大変です(もちろん観光客が見ることができるのは、ほんの一部分です。)
 マドリッドのプラド美術館も、一体幾つの部屋があるのか、何枚の絵と彫刻があるのか、私などはどこをどのように回ったのかさえ分からなくなる程でした。2時間ほど自由に見て歩いたのですが、一日見たって時間が足りないでしょう。そういえば、日本人の姿もかなり見かけましたね。深谷先生なら、良く分かってどんなに楽しいだろうかと思いました。いつか先生にワシントンの美術館を案内して頂いたことを思い出しました。あのときの先生の生き生きした表情を忘れられません。牧師になるために絵筆を折った先生も、今は主のためにその芸術的感性が用いられていますね。一度、スペインにも行ってみてください!

2006年10月28日 (土)

スペイン旅行に参加して(10月29日)

  お許しを頂き9日間の「スペイン・キリスト教歴史の旅」に参加しました。杉山昭男師以下23名で、ロンドン経由でバルセロナからスペインに入りました。私にとっては4年前のトルコ・ギリシャの旅以来の海外旅行でした。前回との大きな違いを感じたのは、英国もスペインも空港のチェックが厳しく、靴も脱ぎズボンのベルトもはずして身体検査を受けました。ハサミや刃物はもちろん、ボトル(水)類は一切機内持ち込みは禁止、テロへの警戒でピリピリしているのを感じました。
 世界各地の異常気象が報道されていますがスペインも例外ではなく、ここ2,3年極端に雨が降らず、各地は水不足です。ところが、私たちのスペイン滞在中、毎日のように雨が降り、ガイド嬢は、「こんなことは珍しく、恵みの雨です」と喜んでいました。
 今回の旅行の主たる目的は、ザビエルとロヨラのゆかりの地を訪ねることでした。
 フランシスコ・ザビエルとイグナチオ・デ・ロヨラは共にスペイン北方に住むバスク人で、彼らの自由闊達な民族性は司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズにも出てくる。ザビエル家はナバール王国(スペイン併合前は小さな独立国家)の名家で、父は宰相にまでなった程の人であった。一方、先輩のロヨラも名門の出で軍人であったが、戦争で足に重傷を負い、その試練の中でキリストとの出会いを経験する。この二人が共にパリ大学に留学して、そこで初めて出会い、若いザビエルはロヨラに説得されて、信仰に生きる決心をし、ロヨラとザビエルは他の同士5人と共に1534年8月15日にイエズス会を結成する。このちょうど15年後の1549年8月15日に、ザビエルは東洋の果て日本へキリスト教の布教のためにはるばるやって来たのである。
 ロヨラが立てこもって冥想したという洞窟(今は修道院)やザビエル城を見て、出会いの不思議さを感慨深く思った。            

2006年10月14日 (土)

ザビエルの国スペイン(10月15日)

  17日~25日までお許しを頂き「スペイン・キリスト教歴史の旅」に参加いたします。今年はフランシスコ・ザビエル生誕五百年の記念の年に当たり、その故郷を訪ねるのが一つの大きな目的であります。ザビエルについては、私たちはほとんど知らないと言ってもよいでしょう。
 ザビエルは日本に来る二年前にマレー半島のマラッカで日本人のアンジローに会い、日本への布教を強く願った。それはアンジローから日本のことを聞き、日本人は信者になるだろうかと彼に尋ねると、「すぐには信者になりますまい。彼らはまずいろいろ質問するでしょう。貴師の答弁を聞き、貴師の行状を探り、果たして言行が一致しているかどうかを確かめるでしょう。その上で彼らは信者になるでしょう」とアンジローは答えた。この答えに大いに感ずるところあり、ぜひ日本に布教に行きたいとの熱意を抱いた。そしてついに1549年8月15日、同行の者たちと共に鹿児島に着いた。(奇しくも前大戦の敗戦の日に一致するが、ザビエルの来日を以てカトリック教会の布教が始まり、敗戦によって再度キリスト教の自由な伝道が許されるようになった。)ザビエルの日本滞在は二年余で長くはなく、必ずしも多くの信者が生まれたとは言えないが、その後の布教の模範を示したのは彼であった。その意味で、ザビエルの影響は大きかった。
 日本を去ってから、さらに中国伝道を願ったが、二年後に香港に近い上川島で病を得てその地に没した。46歳の若さであった。
 スペインでは、ザビエルと共にイエズス会を結成し、その長となったイグナチオ・デ・ロヨラゆかりの地も訪ねるはずである。スペインはカトリックの国であり、中でも最も厳しい修道会の一つに数えられるイエズス会はこの国に生まれたのである。この際、カトリック教会の最もよいところを学んでみたいと願っている。杉山昭男先生はじめ、親しい方々と同行できることも楽しい。お祈りください。

2006年10月 7日 (土)

 同期会に参加して(10月8日)

  先週は3日ほど時間を頂き、大学の同期会に参加してきました。前回は、卒業40年の記念の年に北海道に集まったのですが、今回はその四年後に東北でと言うことになり、私が仙台にいるので、はじめは仙台近郊でと言う話が出ていましたが、結局三陸海岸に決まり、全国各地に散っている同期生28名中18名が飛行機や新幹線で駆けつけました。私は東京組と合流して盛岡に向かい、そこから山田線という電車に初めて乗って宮古まで、さらに三陸鉄道で田野畑という所まで行きました。宮古では少し時間があったので浄土ヶ浜を見に行きました。夕刻、田野畑のホテルに集合して夜は宴会、一人ずつ近況報告等が語られました。私は近況報告を簡単にして歌で会を盛り上げようとしたのですが、かっこよく歌いすぎて盛り上がりは今ひとつでした。
 翌日はマイクロバスを借り切って、近くの観光スポットを見て回りました。龍泉洞は神秘的でした。鍾乳洞ですが奥に透明度世界一を誇る地底湖があり、深いところは水深百メートルを超えるというドラゴンブルーの神秘的な世界を垣間見せていました。
 次は、写真などでも有名な北山崎の海岸美を見に行きました。展望台までの階段の上り下りはいささかきつく、5年後では無理だったとかいろいろつぶやきも聞こえましたが、観光船からの眺めはなかなかでした。三陸と言えば子どもの頃に、リアス式海岸で津波被害が大きいと聞いた程度でしたが、昔の仲間とゆっくり語り合いながら海岸での森林浴を楽しんだり、舟に乗ったり、良い思い出になりました。同期会をこれで終わりにせず、3年後にはまた会おうと約束して散会しましたが、次回は何人が元気に集まれるでしょうか。
 盛岡から新幹線で東京聖書学校に直行し、金曜日は朝から夜までびっしりのスケジュールでしたが、体調も守られ、強い風雨のなか、無事に帰仙できて感謝でした。土曜日は大事な結婚式その他があり、夕方には會澤とき江先生をお迎えします。 

2006年9月30日 (土)

さわやかな晩年(10月1日)

  最近、ある方から次のようなお手紙を頂きました。

「・・はかり知れない神さまの愛と恵みによって、今日八十歳の誕生日を迎えることが出来まして感謝いたします。不思議なように試練の中にも御心にそった判断が与えられ、ひとり暮らしではありましても、平安な日々を過ごしております。
 『労苦によって得た何物も、
    その手に携えていくことは出来ない』
執着していた物を手から離していく年代になりました。どうぞ主の働きのために、み業が進められるためお用い頂きたいと思います。私も体調を整えつつ主に仕え、備えつつ励んで参りたいと存じます。」

このお手紙と共に、多額の献金を東京聖書学校のためにお献げくださいました。お手紙を何度も読み、特に「執着していた物を手から離していく年代になりました」という一文が心に残りました。私はまだ八十歳までしばらくありますが、その歳になったときに、この方のような心境になることが出来るかどうか、これは貧富に関わりなく、神さまから問われることではないでしょうか。
 歳をとると、いよいよ物に執着する心が強くなるとも言われます。子どもの頃に、そんな哀れなおばあさんの話を聞いたように思います。そんな浅ましい晩年を過ごすか、または、このお手紙をくださった老姉妹のようなさわやかな晩年になるか、それは今の私たちの価値観と生きざま、そして日々の祈りによるのではないでしょうか。
 主イエスは「受けるよりも与える方が幸いだ」と言われ、また、「与えることによって、ますます豊かに与えられる」と約束して下さいました。それは、与えることによって、まず心豊かに生きることが出来、さらに現実に必要が豊かに与えられるということです。これは今日まで多くの人々が経験してきたことです。「右の手のしたことを左の手に知らせるな」のみ言葉の通り、密かに与え、献げている方々も多くありますが、神さまはすべてをご存じですから、神の祝福もまた豊かであると信じます。

2006年9月24日 (日)

意外な展開に驚く(9月24日)

 期待と祈りをもって横山義孝先生をお迎えし、特別集会を持つことが出来ることを心より感謝します。
去る18日には宮城聖化大会に黒木安信師を迎え、5日後には横山先生をお迎えするとは、昔に帰ったような錯覚を覚えますが、私はこれを神の摂理と受け止めます。(少し説明しますと、20年ほど前に私たちの群は非常に難しい問題に直面して、黒木師はじめ数名の主だった教師たちが群を離れ、教団からも離脱して新たにグループを結成しました。以来、離脱した方々をこの教会に迎えることは困難になりました。それが、今回主の導きで、何事もなかったかのように黒木師を、引き続いて横山師を迎えて特集が出来たことに驚きを覚えています。)
 ついでに言えば、今回、突然のように峯野龍弘先生から「東北ケズィック・コンベンション」を仙台で開きたいというお話しがあって、私は正直腰が重かったのですが、若い先生方の積極的な受け止めもあり、来年の2月に近所の婦人会館で開催することが決まりました。ケズィック・コンベンションには委員長の峯野先生だけではなく、黒木師やこの教会出身の本間義信師も、また横山師も中央委員としてながく関わってこられましたので、首都圏レベルだけでなく、ここ東北でもかつての群の交わりが始められるのかという予感がしないでもありません。
 聖化交友会機関紙「聖化」の最近号に、黒木師が「今こそ、ホーリネスに生きる者たちの一致と結束が求められるのではないでしょうか」と記し、さらに「アジアや世界各地のホーリネス・ピープルとの豊かで麗しい交流が展開されることを祈らずにはおれません」と結んでおられます。
 もともと、同じホーリネス信仰に立つお互いが、教団のごたごたで別れざるを得なくなったのです。個人的には何も問題はないのです。なぜ、組織になるとこういう問題が生じてくるのか、無念という他ありません。それだけに、今回のある意味で意外な展開に、神の導きを強く感じております。 

2006年9月16日 (土)

 白髪になっても実を結ぶ(9月17日)

  今年も敬老の日を迎えました。ご高齢の兄姉が恵みによって支えられ、共にこの日を迎えることが出来ることは大きな喜びです。
神に従う人はなつめやしのように茂り
レバノンの杉のようにそびえます。
主の家に植えられ
私たちの神の庭に茂ります。
白髪になってもなお実を結び
命に溢れ、いきいきとし
宣べ伝えるでしょう
わたしの岩と頼む主は正しい方
御もとには不正がない、と。
           (詩編92・13~16)
「白髪になってもなお実を結び」とは、どんな実を結ぶのでしょうか。新約聖書では、
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です
(ガラテヤ5・22、23)とあります。
「歳をとると頑固になる」と、俗に言われますが、聖霊に満たされたクリスチャンは、歳をとっても、ますます柔和になり、愛と喜びに満たされ、寛容、親切になるとは何とすばらしいことでしょう。少なくとも、私たちはそうなり得る可能性を与えられているということです。
 そういえば、もう20数年前に召された父は、若い頃は短気でピリピリしていたようですが、晩年は穏やかになって、顔の表情まで全く変わりました。また私たちの老牧師は、若い頃はライオン将軍と言われたと聞きますが、晩年はその面影を残しつつも、「気落ちしている者たちを励まし、弱い者たちを助け、すべての人に対して忍耐強く接し」(テサロニケ一 5・14)のお言葉の通りでした。
心を頑なにしてはならない」(詩編95・8)とは、小原十三司師が晩年、自らに言い聞かせていた聖句だったと聞いています。「恵まれた老人になりたい」という願いを私たちも持ちたいものです。             

2006年9月 8日 (金)

 お祈りを感謝!(9月10日)

  3日の礼拝は、皆さんに心配をおかけし、また、お祈りいただきましてありがとうございました。前夜から少し体調を崩し、日曜の早朝、軽いめまいがあり、礼拝までにはよくなると信じて祈っておりました。しかし、なかなか良くならず、礼拝直前までベッドで休み、静江牧師にも子どものメッセージ等、種々助けられて、なんとかご用を果たすことができました。説教をしながら、皆さんの祈りをひしひしと感じました(祈られる牧師の幸い!)。
 翌朝、病院に行って診察を受けましたが、原因は良く分かりません。季節の変わり目と、夏の疲れが重なったのではないでしょうか。
 病院から真っ直ぐ新幹線で栃木県の今市で行われる聖書学校の退修会に行きました。那須塩原の駅まで大友教師が車で迎えに来て下さり、大変助かりました。会場は鬼怒川温泉の近くに出来た「オリーブの里」という施設で、昨年まではなかった温泉の桧の風呂場も完成して、ぐっとグレードアップしました。
 今回の退修会では、有名なバウンズの「祈りによる力」をテキストに用い、祈りについて学びました。中島代作先生がホーリネス誌を編集しておられた頃、毎号のように「バウンズの言葉」を英文から翻訳して載せておられたのを懐かしく思い起こします。
 この本は歴史的変遷があり、大先輩の葛原定市師その他の翻訳がありましたが、1972年に羽鳥順二師が改訳され、その後絶版になり、また復刊されて版を重ね、地味ではありますがロングセラーを続けています。
 バウンズは、キリスト者、殊に説教者にとって祈りがどんなに大切であるかを繰り返し力説しています。学生たちと共に学びながら、改めて自らの祈りの乏しさを痛感しました。
 最後に著者は「説教者が祈るということは、絶対に必要です。そして、説教者のために祈るということも絶対に必要なことです。この二つは偕老同穴のちぎりにはいっている・・」と、牧師と信徒の祈り合いの大切さを強調しています。私たちも、もっと祈りましょう!

2006年9月 2日 (土)

二つの大事な集会(9月3日)

    
 九月を迎えました。横山義孝先生をお迎えする特伝や敬老会などが控えていますが、その外に私たちの教会を会場に二つの超教派の大事な集会がありますので、簡単にご説明しましょう。
 まず9月18日の「宮城聖化大会」ですが、正式名称は「宮城聖化交友会・仙台大会」です。これはすでに仙台で毎年開かれて恒例の行事になっていますが、今年は浅草橋教会の黒木安信師を講師に迎えます。黒木先生はかつてはホ群の中央委員であり、東京聖書学校の教授でしたから、何度か東北夏期聖会やこの教会の特伝等にもご用でお出でくださいましたが、1988年のホ群の分裂以来、現在のウェスレアン・ホーリネスのグループに移られましたので、私たちの教会とも疎遠になってしまったわけです。私個人としては、以前から尊敬する先輩であり、個人的にも親しくご指導いただきましたから、分裂は大きな痛みでした。今回、聖化交友会の交わりの中でお招きできることになったのは主の深い導きと信じます。先生としても久しぶりに青葉荘教会の講壇に立つのは深い感慨がおありではないでしょうか。期待と祈りをもって先生をお迎えしましょう。なお、先生は現在、全国の聖化交友会の会長であり、ウェスレアン神学院の院長その他の要職を担っておられます。
 9月二26日(火)午後七時からクリストファー・サン師を迎えて「信徒大会」が開かれます。クリス師のお名前は初めて聞く方が多いと思いますが、台湾出身でアメリカに留学し、建築を専門としましたが、主の召命により大衆伝道者として立ちました。アメリカや台湾では大きな伝道会を開き、名が知られていますが、日本では今春初めて東京で伝道会の説教者に招かれました。単純で力強い説教だったとお聞きしました。日本に重荷を感じ、自費で何度も日本に来られ、御心ならば仙台でも伝道会をと願っておられます。私たちは先生を知るためにも、まず信徒大会にお出で頂き、さらに来年には諸教会が一つになって、大きな集会をとも考えております。どうぞ祈ってください。

2006年8月27日 (日)

 神学生の夏期伝道(8月27日)

   
 22日から東京聖書学校の二人の兄弟たちを迎えて、夏期伝道を共にすることが許され愉快だった。
主たる奉仕はトラクトと教会案内を配布することで、昨年も一昨年も聖書学校のキャラバン伝道の際に行ったが、今年は最後の総仕上げ。二年前に作成した一万枚の教会案内の残部を全部配布することができた。これで一区切りついた気持である。
 今年は教会付近のマンションを主たるターゲットとして、早朝五時から2時間程度配布した。早朝を選んだ理由は、日中の暑さを避けることと、早朝でなければ配布できないマンションが多いことである。ハッキリ言えば、チラシその他の配布お断りのマンションが多い。そこへ配布することは規則違反ではないかとお叱りを受けそうだが、配布するのは福音なのだから、お許しを願えるのではと考えている。マンション中心だったので、今年は初めて仙山線の北側まで配布することが出来た。地域とは別にA姉から、下校時の高校生に配布してはどうかとの提案があり、尚絅学院で試みてみたが、受け取ってくれる生徒はほんのわずかで、親や教師たちから注意されているのだろう。時代の難しさを感ずる。とにかく、トラクトがひとりでも多くの人の目に止まることを祈っているが、早速、上杉在住の方から「教会案内を見ました」という電話があったことは嬉しい反響であった。
 今ひとつ、特筆すべき事は若い人々との交流で、安倍姉宅での「賛美と交わり」はとても楽しかったという声を聞いてうれしかった。安倍姉はじめ、お招きくださった方々に感謝する。
 教会での奉仕とは別に、小林喜成師が聖書学校に沢山の本を寄贈してくださるとのことで、それをワゴン車で運ぶことも今回の大事な目的の一つであった。土曜の午後に、小林師を訪問して良き交わりを頂き、山のような段ボール箱を車に積んできた。これも今後に活用させて頂きたい。6日間の限られた、しかし、充実した日々を感謝する。    

2006年8月19日 (土)

  夏 休 み(8月20日)

  暑さももう一息のところ、私たちはエレベーター工事がお盆休みで中断する間、4日間の夏休みを頂き、心身の休息を得ることが許されて感謝だった。
 第1日は、私の幼なじみといってもよい札幌の母教会のM兄夫妻が来仙され、兄とは時折語り合っているが奥様とは久しぶりの再会で話に花が咲き、我々二人と4人でM兄姉が親しい石井正治郎師を遠刈田にお訪ねした。石井師はオランダで3年ほど日本人教会の牧会に当たられた方で、私たちが在欧日本人宣教会の運営委員として苦心していた頃、何度もお名前は聞いていたが、お会いするチャンスがなかったのである。今回、M夫妻の来仙でそのチャンスが与えられて感謝であった。師の家は遠刈田温泉にほど近い別荘村にあり、林の中の素晴らしい環境である。奥様が心づくしの昼食を準備してくださって、食卓の会話も石井師の豊富な体験が次々と披露されて興味津々、時の経つのを忘れるほどだった。食後は奥様のピアノ伴奏で、みんなで讃美歌や聖歌の合唱も楽しかった。夕方近くまで話し込んで、石井師夫妻、M夫妻とお別れし、その日は遠刈田温泉のペンションに泊まる。若い人たちばかりだ。
 第2日は高校野球をラジオで聞きながら福島、二本松と南下して岳温泉に一泊。そこで、東京から来た静江牧師の姉・妹と甥一家と落ち合う。我ら一行は大人6人、子ども1人と賑やかになったが、中心は1歳半余りのKちゃんである。まさにお姫様のように、我々はKちゃんの一言二言や一挙手一投足に笑いが止まらないじじばば振りを発揮した。幼児の力おそるべしである。岳温泉の近くにはサファリパークがあって、そこでも子ども中心に初めて大きな動物との触れ合いも体験した。
 第3日は裏磐梯へ行き、五色沼のコバルトブルーや深緑を楽しみながら、何十年ぶりにボートも漕いでみた。どこに行っても大勢の家族連れで賑わっていた。温泉も楽しみ、翌日は彼らは東京へ、我々は仙台へ、心身のリフレッシュの時を感謝。 

2006年8月10日 (木)

 「中 途 半 端 ?」(8月13日)

  東北夏期聖会も恵みのうちに終わりました。去る祈祷会では、午後も夜も参加者から恵みの分かち合いがあって有益でしたが、夜の祈祷会で、司会者が「中途半端」と言われた言葉が妙に心に残りました。「中途半端」の対極にあるのは、「徹底」とか「完成」という言葉でしょう。そこから連想して、ウェスレーの「キリスト者の完全」を思い起こします。また、ウェスレーの説教集の中に「あと一歩でキリスト者」という有名な説教があります。これはオックスフォード大学のチャペルで満堂の会衆に語ったものですが、彼は自らの体験を踏まえて、イエス・キリストの十字架の恵みと神の愛を知らない真面目な求道者と、その恵みと愛を知ったキリスト者とは、ほんの一歩の違いかも知れないが天と地の差があると力説するのです。その説教を聞いた当時の学生や教師たちの多くは、ウェスレーの言葉が正しければ自分は真のキリスト者ではないばかりか、あと一歩のキリスト者にも遠く及ばないと感じたでしょう。
 また、ウェスレーの「キリスト者の完全」の書き出しに、彼が若き日にジェレミー・テイラーの本を読んで、「私の生涯のすべて、すなわち思いも言葉も行動も、すべてを神に捧げる決意をした。私の生のあらゆる部分は、神に捧げるか、あるいは自分に、結果として悪魔に捧げるかのいずれかであって、その中間はない、ということを徹底的に確信したからである」と記していますが、いかにもウェスレーらしい「徹底性」を示し、こういう考え方を土台に「キリスト者の完全」の教理が生まれてくるのです。
 この本を手にした多くのキリスト者の偽らざる感想は、「私は彼のように徹底することはできない」ということでしょう。そこで次の問題は、「私は中途半端でいいのです」と妥協するか、「私をきよめて、もっと徹底したキリスト者にしてください」と祈るか、そのどちらかではないでしょうか。
 聖会では「きよめとは何か」が問題になりましたが、後者のように祈る人が、きよめの信仰に生きる人だと私は考えています。皆さんはいかがですか?

2006年8月 5日 (土)

自分で考え、語り合う(8月6日)

  きょうは久しぶりに百周年記念委員会が開かれる。記念誌の編集はあまり進んでいないが、懸案であったエレベーター設置は順調に進んで、九月の完成を目処に工事が進んでいる。
 これらの具体的な課題も百周年の記念事業には違いないが、私はもっと教会全体の方向に関わるような大事な課題があるように思っている。 
 過日の役員会でも、「私たちの教会の使命は何か」というような話が議題の合間に出たときに、「人を育てることがこの教会の使命ではないか」と言われた方があった。私も、なるほどと思った。しかし、人を育てるほど困難なこともないだろう。それは到底一教会でできることではないが、キリスト教主義の学校その他と協力しながら必要な人材を育てて、各方面に働き人を一人でも多く送り出すことができたら、こんなすばらしいことはない。 
 しかし、教会としても何か具体的にできることがないだろうか。この教会のかつての特色は、十校に近かった教会学校の分校である。現在は梅田町分校一校になってしまったが、それは大きく時代が様変わりしたからであろう。でも、あの盛んだった教会学校の働きがこの教会に残したものは小さくなかったと今も思っている。
 今、創立百周年を間近にして、教会を挙げて取り組むべき課題をお互いに共有できれば、そこから教会の将来も見えてくるのではないか。もちろん、教会本来の使命である伝道、奉仕、交わり等の基本や、ホーリネス教会の伝統をしっかり踏まえた上で、私たちの教会ならではのビジョンが生まれてくることを期待している。来年のファミリーキャンプは、そういう課題をもってみんなで集まって語り合うことも有益ではないだろうか。 
 私たちも三年目になって、今まで見えなかったことも見えてきたこともある。これは役員会だけの問題ではなく、皆で祈って考えるべき大事なことだ。自分たちの教会、神の家族のお互いなのだから。

2006年7月27日 (木)

 自分でよく考える(7月30日)

  ファミリーキャンプでは分団の時間があり、大人の分団は3つに別れて話し合いを持ちました。初めに、全体で牧師が短く発題し、今回は「ホーリネス信仰」に絞って語り合うことにしました。といっても一つは初心者分団で、そこでは自由に話し合っていただきました。私の分団はベテランが揃っていて、以前に祈祷会でS兄から出されたきよめに関する質問などをたたき台に、一人一人の考えや疑問を率直に語り合って、限られた時間ですがよい話し合いが出来たと思います。
 最近は、聖会でも分団の時間が設けられて、一方的に説教を聞くだけではなく、互いに語り合って理解を深めようという試みがなされていますが、今まで私が参加してきた分団では、必ずしも理解が深まったとは言えないという印象を受けました。それは、皆が自分の体験からそれぞれに語るので、何が問題なのかが明確にならないうちに時間が来てしまって、消化不良のままに終わってしまうケースが多かったように思います。
 その点、今度の首都圏聖会では、分団の分け方に一工夫があり、教師と神学生だけの分団とか、信徒が大半の分団とか、特色を持たせたようです。それでもある分団では、ホーリネス信仰とは何かが最後まで分からなかったという声も聞かれましたから、なお分団の持ち方に工夫が要るのではと思わされました。
 ウェスレーによって指導された初代メソジストは大半が学校で学ぶ機会を持たなかった一般庶民でしたが、「自分が信じていることを最もよく理解している人々」と言われました。聖書に照らして自分でよく考え、自分で理解した教えにしっかり立っていたのです。これは大事なことではないか、そうでなければ「いつでも弁明できるように備えていなさい」というペトロの期待を裏切ることになるでしょう。信徒の皆さんには、ぜひ「自分で考える」という努力を怠らないで頂きたいと願っています。 

2006年7月22日 (土)

神学生夏期派遣(7月23日)

    
 8月22日~27日、東京聖書学校から山口英希兄、中山契生兄(共に4年生)を伝道実習で迎える。二人とも若い兄弟たちであるが、より若い山口兄がリーダーで、兄弟から教会宛に手紙が届いたので、ここに紹介したい。
「ハレルヤ、主の御名を賛美します。
 今年の夏、中山契生兄と共に御教会へ派遣させていただくことになりました山口です。よろしくお願いします。私がこの派遣のリーダーを担当させていただきます。
 島先生が聖書学校の校長をされているので、信徒の方々には説教の中にもたまには学校の様子が話されているかも知れませんね。いつも、覚えてお祈りいただいていることを、改めて感謝申し上げます。
 私たちは四年生とは言いながらも、まだまだ未熟な者であります。しかし、そんな私たちを召して下さった主に感謝しています。時々、私たちは兄弟のように見られますが、それほどお互いの見た目や年齢が近づいて見えるのでしょう。気の若い二人なのだと思います。この夏の派遣奉仕においても、最善のものを献げていきたいと思っています。
 仙台青葉荘教会の上に、主の豊かな祝福と導きが、この夏の戦いの上にも与えられますようにお祈りしています。ご挨拶までに、栄光在主」
 山口兄は現在15名の学生の中で一番若い。そして、二人とも賛美が大好きである。8月27日の礼拝では、賛美と証しをしていただこう。
 6日間の奉仕はいろいろあるが、チャンスがあれば近くの公園で子どもたちへの伝道も考えてもらいたい。また、教会にも若者たちは何人もいるが、礼拝に集う若者は多くはないので、逆に若者のいる家庭に彼らに訪問してもらって、よい交流が持てないかと願っている。彼らを招いてくださる家庭を募集したい。まだ計画は煮詰まっていないが、神の思いがけない恵みの時(カイロス)が備えられていることを信じ、期待している。        

2006年7月15日 (土)

集中すること(7月16日)

  夏は各種のキャンプや修養会、聖会のシーズンです。私たちも、今年の新しい試みはファミリーキャンプですが、日程が良くなかったのか、子どもたちの参加が昨年よりも非常に少ないのを残念に思っています。ファミリーキャンプと言うことで大人の参加は増えましたが、さて、どのようなキャンプになるでしょうか。
 修養会や聖会を開く意味を考えてみると、みんなで一つのことに集中することではないでしょうか。
 現代の一つの特徴は、集中することが非常に難しくなったと言うことです。マスコミは毎日、めまぐるしく多くの情報を提供します。それに振り回されて注意が散漫になり、一つのことをじっくり追求することが難しくなったのです。修養会や聖会でさえ、色々なことのなかの一つのイベントに過ぎないという受け止め方になってはいないでしょうか。
 昔のことを言って恐縮ですが、例えば夏期聖会への取り組み一つをみても、何度も実行委員会を開いて協議し、祈りました。そういうことが、今日では難しいのです。時間を掛けてすることが困難になりました。「手際よく」を、何よりも優先します。時代の流れや風潮は、怖ろしいものです。自分自身がすっかりそう言う風潮に染まってしまったと感じます。いつも時間に追いかけられているのです。
 こういう生き方で、果たして信仰が深まるでしょうか。笹尾鉄三郎先生は「信仰は、まず10年です」と言われたそうですが、少なくとも10年は集中して求道し、修道に励む心がなければ、信仰はものにならないということを言おうとされたのではないでしょうか。しかし、現代人はそういうことに耐えられなくなってしまったのです。浅く、広く、ということが現代人の特徴でしょう。
 主イエスは私たちに何を語っておられるでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」ときょうも語りかけておられると信じます。 

2006年7月10日 (月)

沖縄のこと(7月9日)

 去る6日より、教区の沖縄研修が始まり、6名の教職信徒が参加した。今回の参加者は全員が宮城中地区からとなり、当教会からS姉と静江牧師が参加している。全行程が守られ、収穫を携えて帰ることを祈っている。

 私が沖縄に初めて行ったのは2000年6月で、第4回日本伝道会議が沖縄で開かれた折であった。その時の教会週報に「初めての沖縄」と題して報告しているが、その一部をここに転載させて頂く。これは、伝道会議に先立って、希望者にオプショナルツアーが計画され、沖縄本島の南部戦跡を見たときの印象である。

「初めに有名な『ひめゆりの塔』に行く。ここに平和祈念資料館があり、悲惨な沖縄戦の状況をある程度知ることが出来た。特に心打たれたのは、生き残りの生徒たちの証言が大きな字で展示されていて、いくつかを拾い読みした程度であったが、もっとじっくり読みたいと思った。また、戦火をくぐって奇跡的に生き残った一人の婦人が、米兵に助け出されるまでの状況を静かに語っておられ、その飾らない話にも心打たれた。また、旧海軍司令部壕にも入ったが、ローマでカタコーム(地下墓地)を見たのを思い起こした。中はかなり広く、当時の面影をよく残していた。

 もう一つは沖縄戦終焉の地に建てられた『平和の礎(いしじ)』で、沖縄戦の犠牲者の名が国籍を問わず刻まれている。その数は20万人以上で、年々増え続けているという。アメリカ兵の名も多く見られ、また、日本人は県別に刻まれているが、我が郷里の北海道が多いのに驚いた。北海道と沖縄は南北の端同士だが、何か共通するものがある。

 行ってみて、米軍基地の広さに改めて目を見張る。今でこそ沖縄全土の一割強と聞いたが、以前は半分近くを占めていたという。誰よりも平和を強く願っている沖縄の人たちと、戦争の最前線につながる基地とをどう結んだらよいのか。沖縄の人々に今も犠牲を強いていることを忘れてはならない。」

2006年6月29日 (木)

驚異の一麦教会(7月2日)

 名古屋における東海聖会は恵みのうちに終った。不十分なご用ながら、責任を果たし得てホッとしている。お祈りを心から感謝する。今回、一番印象深かったのは会場教会となった一麦教会で、丸一日の短い逗留だったが、そのことを記してみたい。

 一麦教会は、名古屋東部の住宅街の中にあり、コの字型の真ん中が玄関へのアプローチになっており、左側に礼拝堂、右側に牧師館があって、全体が一つの建物になっている。かなり広い会堂で、住宅街にマッチして景観賞を受賞したとのこと(会堂建設では定評のあるヴォーリズ建築事務所の設計)。

 何よりも驚いたのは、この大きな教会を牧会しているのは松原向(さき)というおばあちゃん牧師で93歳とのこと。ご主人の和人師が独立で伝道を始めて「活けるキリスト一麦教会」の基礎を築かれ、40年前に60歳で召天された。その後を、英語教師であった向師が引き受けて、93歳の今日まで伝道牧会に励まれ、礼拝が常時250名という群に成長した。その秘密はどこにあるのだろう。短い滞在では十分に知ることはできなかったが、松原師が祈りの器であることは間違いない。信徒の方々も、松原先生に祈られているということが心の大きな支えになっていると語られた。毎朝五時半からの早天祈祷会には数名の信徒が出席して先生と共に熱心に祈っておられる。

 日曜日、朝8時45分から教会学校が始まり、かなりの子どもたちと教師たちが元気に賛美していた。礼拝は10時から始まり、ほぼ満堂の会衆で、活気がある。パイプオルガンとピアノの伴奏で、賛美も力強い。聴覚障害の方が10名ほど手話で賛美していた。外国人も何人か見え、同時通訳がなされている。若い人から高齢者まで偏りなく集まっているようだ。礼拝の途中でお揃いのTシャツを着た子どもたちが20名ほど入ってきて、手を叩きながらワーシップソングを賛美したのがすばらしかった。説教も語りやすい雰囲気で、全体で一時間半ほどと短かすぎず長すぎず、礼拝を捧げたという充実感が残った。日本にもこんな教会がある。  

2006年6月22日 (木)

隠退教師の挨拶(6月25日)

  きょうは地区の講壇交換で、ジェフリー・メンセンディーク師からメッセージを頂けることを感謝します。今エマオ館では、父上・ウィリアム先生のコレクション展が行われており、貴重な写真等が展示されています。生涯を日本宣教、特に東北学院のために捧げられ、隠退して帰国され、先頃帰天されました。ジェフリー師は父上の写真のお顔にそっくりです。

 私は最近、ある福音系の教団の機関紙で、今春隠退された6人の牧師たちの紙上挨拶を読み感銘を受けました。皆、40~50年の伝道牧会を終えて隠退された方々ばかりですが、「ただ神の憐れみによって献身生涯を全うできた」と語っておられます。

 「この頃しみじみ思い、反省させられることは、聖書をどれ程味わい、知り、生活したかということである。聖書を喜び知っているか、どれ程精読、熟読、味読、自らの血となし肉となし、聖書に生きたかと思うと、ただ平伏するのみである。聖書を深く読み味わい知り、聖書に沈潜し、生きたみ言葉の証人であったかと厳しく反省する。上滑りに、無味乾燥に、表面的な生煮えのままで思い込んで生活してきたのではないか。・・・特に牧師として、聖書を半煮えのままで、よくも厚顔無恥に生活してきたのではないかと痛く恐れ、平伏の他はない。・・・」とは、尊敬するS牧師の一文です。

 「妻の末期癌、召天、隠退、引っ越し、心身共に疲れ切った三ヶ月でした。先日、土曜日遅くまで整理しながら、ふと明日の週報は? そして我に返り『もういいんだ。これが隠退だ』と心中叫びました。・・・一年365日、週報とメッセージに追いかけられ通しでした。3月26日、現役最後の祝祷を終え、講壇を降りる際に『これで全部終わりましたー』と、思わずガッツポーズをしました。不謹慎この上なしです。でもそれが精一杯生きてきた私の偽りない気持でした。・・・」とはY牧師の一文。ありのままで滲み出てくる福音の恵み、それこそ本物と言うべきではないでしょうか。     

2006年6月16日 (金)

祝されたチャペルコンサート(6月18日)

 先週の菅英三子姉をお迎えしたチャペルコンサートは、大勢の来客を迎えて会堂は満席だった(約250名)。皆さんが「感動しました」「良い企画をありがとうございました」等の感想を残してくださった。アンケートを提出して下さった方も132名にのぼり、その内23名は無記名だったが、教会員の名前は一人なので、他はほとんどお客様とみて、教会員を除いたアンケートの回収率も六割以上と見ることができる。

 コンサートを何によって知ったかとの問には、「家族、友人に誘われて」が63、「新聞の案内を見て」が33、「チラシを見て」が22、「看板を見て」その他が11、不明が3だった。チラシは4000枚を河北の折り込みで配り、近隣のマンションに数百枚を手配りしたが、新聞の案内の方が多くの人の目に止まるということであろう(新聞は、河北、朝日、読売の三社)。実際、かなりの方から電話の問い合わせがあった。

 興味深いのは年齢構成で、不明の20を別にして、20代以下4,30代6,40代10,50代24,60代33,70代29,80代以上8である。つまり、聴衆の八割強が、50代以上ということで、30歳以下の若い人々はほとんどいなかったということである。それは会場を見回しても明らかであった。これは、菅さんのファンが高齢の方が多いのか、若い人はクラシックにあまり関心がないということか、今後の検討課題である。

 地域は、仙台市内の各所、近郊や石巻にまで及ぶかなり広範囲にわたっている。逆に、近隣の方々がどのくらいおられるか、細かく調べれば、新聞折り込みの効果などもある程度は判断できるであろう。
 以上は、数字に表れたチャペルコンサートの一面である。もちろん、数々の感動や感謝の言葉が残された。また、演奏が始まっても、後方がざわついたのが気になったというご注意もあった。これらを今後の企画にいかしたいと思う。      

2006年6月 9日 (金)

チャペルコンサート(6月11日)

 きょうは菅英三子姉をお迎えして、楽しみにしてきたチャペルコンサートである。今年は「賛美と交わり」の年なので、きょうは記憶に残る日になるであろう。4000枚のチラシを新聞折り込みで配布し、また、河北や朝日にも広告を載せて頂いたので、今回ほど問い合わせの電話が多かったことも珍しい。会堂に入りきらない人々が集まるかも知れない。電話では、早めにお出でくださいと案内したが、実際、200名を越えると座ることが難しくなる。その場合は、教会員の元気な方々は、二階のギャラリーで聴いて頂きたい。

 チャペルコンサートといえば、忘れられないのは、香港の聖公会の会堂での「メサイア」演奏を聴きに行ったときのこと、広い会堂だったがすでに満席で、空いているのは最前列しかなかった。仕方なく最前列まで進み、空いていた一つに座ったら、その席は実はソリストの隣の席だった。開演時間になって、指揮者やソリストたちが入ってきて、立派な燕尾服のソリストが私の隣りに座った。歌うときには前に立って歌ったが、私も緊張してしまって音楽を楽しむまではいかなかった。

 ドイツのバッハコンクールで第一位になったという今仲幸雄兄をお招きしたことがあるが、熱心にお嬢さんのことや、ご自分の証しを語って下さったのが心に残っている。音楽のよく分かる方が、声楽家があんなに語っては演奏のためによくないと言っていたが、主から受けた恵みを語らざるを得ない気持だったのだろう。 

 今はテレビなどでも有名になった沖縄出身の新垣勉牧師(盲人)も、軽妙なトークでピアノの弾き語りをされたが、体調が今ひとつでお気の毒であった。他に盲目の牧師で忘れられないのは影山範文師(テナー)で、ご夫人も盲目であったが、一粒種が当時三歳ほどのぱっちりと目の大きい女の子であった。その後、立派に成人して活躍しているとの消息を、最近、たまたま耳にしてうれしかった。  

2006年6月 3日 (土)

新しい宣教の取り組み(6月4日)

 教区総会が終わった。今年の総会の目玉は、夜の協議会で新しい宣教の試案が取り上げられた事である。それは、常置委員会から宣教研究所に託されたことで、過疎化の地域、特に教会が高齢化して経済的に牧師を迎えることが出来ない教会が増えてくる中で、従来の考え方では宣教が成り立たなくなってきたという危機感からの取り組みであった。
 今回、宣教研究所は、教区内の2地域(福島県原町近辺、山形県新庄市)をモデルケースに取り上げ、既存の教会を生かしながら、新しい取り組みができないかという可能性が探られた。宣教研究所の試案はかなり大胆なもので、当該教会の方々には衝撃的であったかも知れない。例えば、3つの教会が合同して新しい教会・集会所を生み出し、また、幼稚園・保育園その他の付属事業を地域の必要に合致するものに整えて、そこに必要な働き人を送り込んでいくというような考え方である。
 それぞれの教派的伝統を受け継いで、必死に教会を守ってきた信徒の方々にとっては、教会の合同や、ネットワーク宣教と言われても、そう簡単には受け入れられないという気持はよく分かる。しかし、そのような抜本的な対策を考えなければ、乗り越えられないところまで来ているということも事実ではあるまいか。

 このことに関連して、香港JCFや海外のクリスチャングループの存在は、日本の教会にも参考になると思う。私たちが香港にいた頃は、日本語の教会は一つだけで、いろいろな教派の信徒の方々が一つになって礼拝を捧げ、伝道に励んでいた。そこに諸教派の伝統が豊かに生かされていたと思う。教派の伝統をなくしてしまうのではなく、それを大事にしながら、主にあって一つになる可能性を追求していく事である。海外ではそうせざるを得ない状況があった。しかし今や、国内においても、別の意味でそういう状況になってきている。この危機を神のチャンスと考えることはできないか。      

2006年5月27日 (土)

巷の話題に一言(5月28日)

 「ダ・ヴィンチ・コード」という小説か映画を耳にした方も多いと思う。テレビでも放映されている。アメリカでは600万部を超える空前のベストセラーと聞いた。早速、映画にもなって、これまた評判を呼んでいる。静江牧師が文庫本を買ってきたので、そんなに面白い本なのかと上巻を読んでみたが、ミステリーないしサスペンス小説としては(私はよく分からないが)結構読ませる本ではなかろうか。 
 ただ困るのは、イエス・キリストはマグダラのマリヤと結婚して子どもも生まれていたというような荒唐無稽な話とか、それがあたかも歴史的な資料によって裏付けられるのに、教会はそれを恐れてひたすら隠し通してきたなどと尤もらしく書かれてあることだ。聖書やキリスト教について基本的なことが分かっていない人は、それを軽信してしまうおそれがある。事実、アメリカでは若者たちに大きな影響を与え、聖書を読むことも止めてしまったという人も出てきている。こうなると看過できないから、カトリック教会は広く一般に警告を発し、プロテスタントの学者たちも反論のために、本や論文まで書いているようだ。
 しかし、アメリカではともかく、キリスト者が少数の日本において、この本や映画がこんなに騒がれるのはちょっと意外な感じがする。
 最近、「いのちのことば社」から「ダ・ヴィンチ・コード、その真実性を問う」という小さな本が出版されたので、お隣りのキリスト教書店で買ってきた。アメリカの歴史学者とラジオ伝道者の共著になっている。例の本の、聖書やキリスト教に関する記述がいかにでたらめかを暴いていくが、あまり意義も感じられなかったので飛ばし読みしてしまった。
 主イエスは、「木は、その実でわかる」と言われた。いたずらに議論する必要もないが、大事なことは、自分たちはどのような実を結んでいるかを反省してみることではないだろうか。よき実を結ぶ証しこそ、キリストの福音の真理性を力強く証明する。 

2006年5月20日 (土)

 伝 道 元 年(5月21日)

 去る15日、当教会で仙台圏福音主義牧師会が開かれ、初めて参加しました。当日は、東京から首都圏キリスト教大会を終えたばかりのクリストファーサン、姫井雅夫両師も見えて首都圏の様子や、サン師に与えられている伝道のビジョンなども伺いました。当教会の信徒の兄姉数名も出席しました。
 サン師は、台湾出身のエバンジェリストですが、日本の伝道に使命感を持っておられ、手弁当で伝道応援しようという情熱を吐露されました。しかし、伝道するのはあくまでも私たちですから、これから仙台圏の教会がどれだけ一致して伝道会を開こうという願いと祈りを持つことができるかにかかっていると思います。私たちの教会も、仙台市の中心に位置するのですから、今までもそうであったように今後はいっそう協力伝道の輪の中心になっていくでしょう。その覚悟が必要だと感じました。
 今年を伝道元年と位置づけ、迫ってきた創立百周年も睨みながら、教会の伝道体制を整えていきましょう。今年は「伝道委員会」も発足しますが、進んでこの委員会に参加して頂きたいと願います。
 現在は、主の導きを祈っている段階ですが、八月まではチャペルコンサートやファミリーキャンプ、東北夏期聖会などが予定されております。そこで、九月から伝道委員会を始動させて、九月24日に横山義孝師を講師に迎える秋の特伝と「こころの友伝道講習会」、十月は引き続いて信徒伝道月間として伝道礼拝を行い、皆さんにも積極的に賛美や証しのご奉仕をお願いしたいと考えております。
 イムマヌエル教会の田中敬康師によれば、仙台人気質は堅実でねばり強く、一旦信仰を握ったら、簡単に信仰を失うことはせず、師が授洗した兄姉の8割は、忠実に信仰生活を守っており、これは他所では見られなかったことであると語られました。そのような長所を大切にして、私たちにどのような伝道が求められているか、知恵を絞って参りましょう。 

2006年5月13日 (土)

 朝の時間をどう使う?

 朝はゴールデンタイムです。もっとも、夜型の人は、朝は眠たいだけだという人もあるでしょう。私も学生時代は完全に夜型でした。それが、献身して聖書学校の寮に入ったときから全く変わりました。聖書学校では毎朝5時半から、早天祈祷会がありました。そこで訓練されて、中野の教会に遣わされてからは、当然のように早天祈祷会(ひとりの時もあったが)を続けました。この習慣が緩んだのは我が家に愛犬ラビ一世が来てからです。犬は早朝から散歩に連れていけとせがみます。そこで祈りが中断したり、散歩の後になったり、いろいろありました。香港では、朝は妻とふたりで家庭礼拝を守るのが習慣になり、これも貴重な経験でした。
 西川口教会では、早天祈祷会を再開しましたが、ラビ二世が来て、またまた祈りを妨げられました。夏の間は早天の前に犬の散歩を終えていましたが、冬はどうだったかよく覚えていません。
当地、仙台に来て、散歩が先か祈りが先か、これも微妙な問題です。榎本保郎師は「人は何とか祈れない理由を探して祈らない」と言いましたが、本当だと思います。しかし、幸か不幸か昨年6月にラビが死んで、犬の散歩からは解放されました。
 ところが、朝ラビを散歩させているうちに、近くの上杉公園で体操をしている方々と知り合いになり、仲間に加えてもらって、今は毎朝6時から30分ほど体操をしています。呼吸法を取り入れた、ちょっと太極拳に似ている体操です。これを毎日するようになって、運動をほとんどしなかった私としては体調が良く、気分も爽快になりました。しかし、その分、祈りの時間が短くなります。ここが難しいところで、聖書は「体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」と教えています。
 さて、朝の時間をどのように使うか、何を優先順位の上位に置くか、分かってはいても実際は難しいところです。皆さんは如何ですか?

2006年5月 8日 (月)

「新しい人に」(5月7日)

 先日の礼拝で、大江健三郎さんの「新しい人に」を紹介しましたが、礼拝に見えているK姉が、大江さんの「新しい人に」という詩を持ってきて下さいました。これは実は合唱曲になっていて、一昨年のNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部の課題曲になったものです。この曲の作曲者は信長貴富という方でK姉のご友人とのことです。曲を見ると素敵な合唱曲だと思いますが、残念ながら聴くことが出来ないので、ここには大江さんの詩だけを紹介します。

 「新しい人」に     大江健三郎

私は好きだった、
信じることの できる自分が。
人を、生きている世界を、
その未来を 信じると、
私がいう時、
星ほどの数の 子供たちが、
信じる、といっているのを感じた。
     
ある日、信じるといえなくなった。
私が生まれる四十年前の夏、
一瞬の光が、
子供たちを、
ガスにしてしまった、と知って。
それから、
信じるといおうとすると、
ガスになった子供たちが、こちらを向く。
ガスになった目で、私を見ている。

いま、私は、
古い 古い 手紙を、教えられた。
争う者らを 和解させる、
「新しい人」が来た、という手紙。
私は、胸のなかでたずねる、
もう一度、「新しい人」は来るだろうか?
世界中の子供たちが、
それぞれの 言葉で、答える。
――きっと来てくれる、心から信じるなら。
「新しい人」に、私は祈っている、
来て下さい、あなたと働きたい私らの、
いま、ここへ!

 注:「古い古い手紙」エフェソの信徒への手紙

2006年4月29日 (土)

新刊「キリスト者の完全」(4月30日)

主にあって敬愛する藤本満牧師から、新刊の訳書を寄贈して頂きました。ジョン・ウェスレーの「キリスト者の完全」です。ウェスレーの主著ともいうべき本で、日本でも多くの人に読まれてきましたが、この度、イムマヌエル綜合伝道団創立60周年の記念事業の一つとして発刊されたもので、一読して、これこそ長く求められてきた本だと思いました。
「キリスト者の完全」はお読みになった方もあるでしょうが、小著ながら教会史において大きな問題提起をしてきた本です。邦訳もメソジスト教会の監督であった赤沢元造訳をはじめ、私の知る限りでも数種ありますが、この度の藤本訳は丁寧な解説と注が付いたところが従来のものとは全く違うところで、今までなかなかなじめなかったこの本が、ぐっと身近になった感じです。
藤本満師は、日本のウェスレー研究の第一人者で、若くして「ウェスレーの神学」を出版され、私も聖書学校のテキストとして用いさせて頂いており、この種の本が少ない日本では貴重なものであります。また、先頃、ウェスレーの標準説教53が三巻でイムマヌエルから出版されましたが、この説教集にも藤本師の解説が付いて、ずいぶん分かりやすくなりました。定評ある説教とはいえ、18世紀の英国ですから、我々が読んでもぴんと来ないところがあります。ですから解説が必要なのですが、これはウェスレーによく通じている人でなければ書けないものです。以前から願われてはいても、なかなかそれが出来なかった事情がお分かりになるでしょう。
 「キリスト者の完全」についても同様のことが言えますが、ついに人と時を得てこの度出版されたという「待望の書」であります。
 今、イムマヌエル出版局では、創立60周年記念に同出版局の本を割引で販売しています。「キリスト者の完全」も定価から15%引き、1700円で買うことができます。この際、この本によってウェスレーの神髄に触れて欲しいと思います。「読む人は成長する人」(ウェスレー)です。        

2006年4月24日 (月)

教会総会を迎えて(4月23日)

 きょうは教会総会である。役員の兄姉が中心になって総会議案書をまとめて下さり、感謝である。これを見ると、一年間の教会の動きや教勢等がよくわかる。礼拝をはじめ諸集会も守られて感謝であるが、大きな反省もある。その一番に、受洗者が少ないことが挙げられる。もちろんこのことも主のみ手にあることであって、このことを通して主は私たちに語っておられるのだから、それをしっかり聞かなければならない。
私の手もとに東京の更生教会時代の月報があるが、教会員のS兄が受洗した20数年前のクリスマスの写真がある。そこに小学生、中高生、青年、婦人など9名の受洗者が並んでいる。その前年のクリスマスにも同じくらいの受洗者が与えられている。その頃と今を比較して、何が変わり、どこが違うのだろうか。まず私たちが歳を取ったということである。これはやむを得ない。そして教会学校の生徒が激減したことである。先の9名の受洗者のうち5名は教会学校の生徒である。しかも、彼らは教会付属幼児園の卒園生であるが、その幼児園も数年前に閉園して、今はない。

 今日は、日本の教会全体が高齢化して、子どもたちや若い人々が大きく減少している。私たちの教会も例外ではない。
 教会は、揺れ動く社会に影響される面もあるから、現象面に一喜一憂するのも考え物だが、将来を見据えて、今の段階で我々は何をすべきか、子どもたちや若者の減少に対して打つ手はないのかを考えねばならない。そのためにも、新年度「伝道委員会」を新設することにした。教会の伝道全体について考え、提案し、実践していく委員会である。すでにある「こころの友伝道委員会」「文書伝道委員会」また教会学校やその他の委員会ともタイアップして、教会の伝道の課題に取り組んでいきたいと考えている。関心のある方々にぜひ加わって頂きたいと思う。           

2006年4月17日 (月)

受難週(4月16日)

 今年の受難週は、吉川(東京聖書学校)で過ごしたという印象だ。火曜日早朝に家を出て、午前は学校の入学式、大きな期待と祈りをもって3名の女子、1名の男子を新入生として迎えた。私はイザヤ書6章から「私を遣わしてください」と題してメッセージ。記念撮影の後、茶話会、教師会、教授会と続き、夜は高校時代の友人が訪ねてきてくれた。原彬久君だ。国際政治学者で、時々新聞にも記事が載るのでご存じの方もあるかと思う。昨秋、岩波新書で「吉田茂」を出版して評判になった。20年ぶりの再会だったが、会ってみるとすぐ高校時代に帰って、話が弾んだ。
 水曜は学校のガイダンスと午後教授会の続き、学生の個人面談、夜は静かに聖書を読む。
 木曜は洗足の日に当たるが、午後はウェスレー神学の授業、そして、近所の不動産屋に多目的の建物を探しに行く。土地代は若干値上がり気味とのこと、適当な物件が出たらすぐ連絡して欲しいと頼んできた。夜は祈祷会。特別に洗足祈祷会で、学生の新鮮な奨励の後、聖餐式があった。静かに聖餐の恵に与り大きな感動を与えられた。
 金曜は受難日。早天祈祷会では「十字架」について短く奨励し、共に祈る。午前午後、授業。今年度から原登師に代わり「ホーリネス特講」を担当する。テキストのトマス・クック「新約のきよめ」を共に読んでいくことにしたが、新入生の初めての授業で、序論を読む程度で終わった。 
 午後は説教演習、3年のI姉が明快な説教をして、学生たちが一言ずつ批評を述べる。それが、なかなか的確で面白かった。授業を終えて学校を飛び出し、大宮から新幹線で順調に帰仙した。
 4日も留守にすると、手紙やメールが溜まっている。週報の仕上げ、この短文書き、礼拝のメッセージの準備など、あっという間に主の御受難日も終わる。土曜日はイースターへの備えである。留守の間に立派な教会総会議案書を作成して頂き感謝。

2006年4月10日 (月)

ホ群年会報告(4月9日)

「ホーリネスの群」の年会が終わりました。今年の主題は「ホ群教会の積極的形成」で、主題聖句はコリント第一3・9が選ばれました。プログラムの主なものとして三回の聖会と事務会、全体協議会、そして三月に召天された池田なおみ師の追悼式が行われました。聖会Ⅱに先立つ「派遣式」では、9名の教師たちが新たな教会へ派遣されましたが、内4名は3月に東京聖書学校を卒業した新任の教師たちです。初めて伝道の第一線に立つ不安はあるでしょうが、それよりも前途への期待がそれぞれの一言ずつの抱負に溢れていました。送り出す私たちとしては、「主と恵みの言葉とに委ねる」(使徒20章)という以外にありません。
 70歳になると、そろそろ隠退の声も聞こえてきますが、中山忍・倫子師ご夫妻は、山梨の郷里伝道を後輩に託して新たに三重県の紀伊長島教会に派遣されていきました。その若々しい伝道の情熱に敬服致しました。聖会Ⅲでは現役最長老となった横山義孝師が力強くメッセージをされましたが、「今年は80歳になるが、18歳くらいの気持だ」との言葉に、アブラハムやモーセの召命を思わされました。ウェスレーも80代で同様のことを言っています。
 事務会では、委員長選挙を始め選挙の多い年でした。山岡委員長三期6年の後を受けて、若い八束潤一師が選ばれ、副委員長には深谷春男師、書記には山田称子師が選任され、三役がぐっと若返りました。続いてホ群委員の選挙でも、比較的若手が選ばれて、私は職責上委員会に陪席しますが、教職では最年長になりました。責任の重さを痛感します。しかし、いつまでも委員会に陪席することが適当かどうかも考えねばなりません。
 特に年会で取り上げられたことの一つは、聖書学校の寮の補充も兼ねて、なるべく早く近隣に多目的の建物を購入したいという学校サイドからの提案でした。この実現のために、覚えてお祈りください。    

2006年4月 1日 (土)

逆境のときに(4月2日)

4月を迎えた。入学とか就職とか、変動の時だが、必ずしも希望通りに行かないのが人生である。私も今までの生涯を振り返って、うまくいかなかったとき、まあまあ順調だったとき、いろいろあったが、挫折感で苦しんだときが、自分にとって一番必要な時だったのだということがよくわかる。
 「逆境の日には考えよ」と旧約聖書にあるが、順境の時はどうしても考えが浅くなる。じっくり考えることが出来るのは、逆境の時である。ヨセフが若くしてエジプトの宰相の務めを果たし得たのは、神が共にあったことを別にして言えば、濡れ衣を着せられて投獄された、あの獄中でじっくりと祈り考えたからであったに違いない。モーセが出エジプトの指導者になったのも、ミデアンの荒野で羊を飼った40年の生活こそが、その基礎を作ったと信じる。
 「充電の時」などと言われるが、携帯電話でも電気カミソリでも、充電しなければすぐ使えなくなる。人間は機械ではないので、夢中で働いているときには気づかないが、神のストップが掛かってみて初めて分かる。こんな事を続けていたら、身も心も破滅しますよ、という神さまの警告なのだ。
 使徒パウロという人は、がむしゃらに突き進む人だった。クリスチャンを迫害していた頃の生き方が、彼の本性をよく表している。そういう性格は簡単には直らない。キリストを信じて伝道者になってからも、方向は180度変わったが、神のためにがむしゃらに生きた。しかし、神はときどきストップをかけて、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と、彼に声をかけられた。パウロの場合は、留められることが必要でもあったし、恵みでもあった。それは、使徒言行録や彼の手紙によく現れている。
 祈祷会で一年間「コリントの信徒への手紙二」を共に学んで、「逆説の恵み」ということがよくわかったのではないか。「わたしは弱いときにこそ強いからです」と、手紙に書いてあるとおりである。それでも、逆境の時はつらい。泣かざるを得ないのが人間である。

2006年3月28日 (火)

一族の救いを目指せ(3月28日)

 先週は教会員が召されたり、教会の関係者の葬儀を頼まれたり、多忙な日が続きました。教会員の召天では、離れて住む子どもたちに連絡が十分でなかったために、本人が望むキリスト教式の葬儀が出来なかったことが心残りです。キリスト教はこの国ではまだまだマイノリティであることを痛感しました。
 教会関係者で天に召されたH姉は、私たちの教会の戦前の信者であった家庭に育ち、私もお名前は折々に聞いておりましたが、お会いしたことはありませんでした。ところが、この度の葬儀に集まった一族の方々に接し、その一族の結束の固いのに驚き、かつ敬服しました。その中には私たちの大先輩である森五郎先生の子どもたちも連なるなど、教会との関係の深さもだんだん分かってきました。これらの方々が今日教会につながっていたら、大きな力になっていたことでしょう。
 以前に、満丸茂先生が、一族の救いということを強調しておられましたが、日本の場合、それが特に大事であると改めて思いました。今日までのキリスト教は個人主義的な面が強く、一家で一人だけクリスチャンというケースが多いのが現状ですが、特に地方の伝道は、まず一家に、そして一族の中に福音が浸透していくことを目指すことが大事ではなかろうかと思います。
 我が家においても、父母が信仰に導かれた結果、私たちも主の救いに与り、その伴侶や孫たち等、救われた者たちを数えていくと20数名になりますが、これは多い数ではありません。しかし、今日はさらに少子化傾向が進み、昔のように薯ずる式に多くの人が救われるという可能性が小さくなっています。もし子どもたちが10人もいたら、その子どもたちや孫たちが信仰を受け継いでいくと、その結果は驚くべき結実を見ることになります。
 この度の葬儀に参列された親族の多いことに驚きましたが、これらの方々がクリスチャンホームを築いていったら本当に素晴らしいと思い、祈らされました。
「わたしとわたしの家は主に仕えます」と明確に宣言したヨシュアの信仰の尊さを改めて深く思う1週間でした。

2006年3月20日 (月)

二人の先輩教師(3月19日)

   
 先週はお二人の先輩教師をお訪ねした。森野善右衛門先生と小林喜成先生である。森野先生は東北学院に30年間働かれ、現在は関東教区の巡回教師であるが、隔月に仙台において実践神学の読書会を開いておられる。前からご案内を受けていたが、ようやく出席が許された。先生のマンションで開かれたが、リビングは満員で信徒の方も何人か見えた。今年は、先生の近著である「告白と抵抗」―ボンヘッファーの十字架の神学―を読んでいこうと決まった。ボンヘッファーは神学生の頃から先生の第一関心事で、何冊かの本も書いておられる。私もボンヘッファーには以前から関心を抱いていたので、先生に直接お聞きできるのはありがたい。
 先生に最初にお会いしたのは40年も前になるが、ある時私たちの教会の礼拝に出席された。その時、中島代作先生がストレートにキリストの再臨を語られたのを不思議に覚えている。そのホーリネス教会ならではのメッセージを若い神学教師であった森野先生がどのように受け止められたか興味があった。そんなことは、先生はもちろんご記憶にないだろう。
 小林先生は昨年のCSとの合同クリスマス礼拝に奥様とご一緒に出席してくださった。現在はホームに入られたが、ご自宅に多くの蔵書があり、それを東京聖書学校に寄贈して下さるという。その本を見せて頂いたが、大変な量であり、貴重なものである。これだけの本を購入して、しかもそれをずっと保管している牧師はほとんどないだろう。普通の家ではとても納まる量ではない。トラックで運んではと言われたが、それも大変なので、学校のワゴン車で運べるだけということになろう。
 先生は父上の時からホーリネス教会と深い関係にあり、昔から私たちの群に好意的で、私が補教師試験のため東北教区の面接を受けたとき、先生は教区の書記であった。あのときも、いろいろと好意的なアドバイスをしてくださったのをよく覚えている。40年も前からこれらの先生たちにはお世話になっている。 

2006年3月11日 (土)

卒業式を終えて(3月12日)

東京聖書学校の卒業式が8日に無事終わった。今年は五名の兄姉が卒業した。どこの学校でも卒業式には涙がつきものだろうが、聖書学校の場合は一味違う涙がある。今年の卒業生の平均年齢は五十歳である。一家の家長や主婦が献身してくるのである。家族の協力や、母教会の支援がなければ、とうてい四年間の学びを全うすることは難しい。それらのことを思えば涙、涙になるのも無理はない。
 旧約聖書を見ると、神のために聖別されたレビ人は五十歳が定年であった(民数記8・25)。旧約時代ならばとうに定年に達してから奉仕に向かおうとしているのである。
 しかしモーセのことを考えれば、80歳から出エジプトの指導者に立てられた。自分にはできないとひたすら固辞するのに、ついに神に説得されて大きな責任を担わせられたのである。彼は120歳までの40年間、壮者を凌ぐ働きを続けた。必要ならば神はそのような力を与えてくださる。自分で簡単にできないと決めてしまうのは早計である。
 しかし、教会にも定年制を定めているところがある。これはどのように考えるべきだろうか。
 レビ人に定年制があったのは、働き人が十分にいたから、若い人に道を譲るという意味があったのではないか。しかし、教会の現状はどうか。「収穫は多いが働き人が少ない」という状態だ。無牧の教会も多い。但し、無牧の教会にもそれぞれ事情があって、牧師を招きたくても経済的に困難なところも沢山ある。年金を受けている牧師を招きたいという教会もある。
 だから「適材適所」ということがいよいよ大事になってきている。私たちの教団では各個教会が牧師を招聘するのが原則だから、第三者がとやかく言うことは憚られるが、私たちのホーリネスの群は教団の枠の中で委員会が人事の斡旋をしている。これはうまく機能すれば「適材適所」を実現しやすい利点があると考えられるが、如何であろうか。

2006年3月 4日 (土)

S君の来訪(3月5日)

 きょうは全く個人的な昔話をお許し頂こう。
 珍しい友人がひょっこり訪ねてきた。「自分も老い先短くなったので元気なうちに会いたいと思って」とのことだったが、老い先短いといっても高校時代の同期のS君である。もう半世紀程の付き合いになる。特に忘れられないのは高校3年のことである。その頃、我々の高校では生徒会が危機に瀕した。生徒会長のなり手がなかったのである。やむなく一時期、代行委員会制をとり、クラスの代表委員が集まって生徒会の代行をしていた。私もその一人だった。しかしこれではまずい、誰かが会長になるべきではないかということになって、会長候補に担ぎ上げられたのがS君だった。彼も初めは躊躇していたが、私に「君が副会長をやってくれたら」という条件つきで会長選挙に立ってくれた。選挙といっても候補者は3年生から彼一人だ。もう一人下級生で立候補したのがいたように記憶するが、結局彼が当選して、卒業まで一年間会長を務めてくれた。約束した手前、私も副会長をやらざるを得なくなったが、いわゆる受験校において高校三年の一年間は、文化祭などいろいろ学校の行事に追われた。毎日、放課後には狭い生徒会の部屋で、わいわいがやがやと生徒会の運営など討論し合ったのが思い出される。学校に泊まり込んで、文化祭の準備に打ち込んだこともあった。
 大学に進んでからは、別々の進路になったので会うことも少なくなったが、40年前に私が仙台に来たとき、ここまで訪ねて来てくれて、一緒に松島を見に行ったことも懐かしい。
 彼は市役所に勤めて、長い間福祉関係の仕事に携わっていたが、数年前にある老人ホームの施設長になった。そのホームにたまたま私の長姉夫婦がお世話になったのである。苗字が違うので私の姉とは気づかなかったようだが、私が姉に出した手紙を偶然手にして、ハッとしたそうである。これも奇縁であった。彼は定年後も近所の老人ホームの責任を負っているが、互いにもう少し頑張ろうと語り合った。

2006年2月27日 (月)

「ただ一つのことを」(2月26日)

  第45回の箱根のケズィック・コンベンションが終わった。今回は、アメリカとイギリスから二人の講師が主講師として立てられたが、他に日本人講師としては札幌の久保木勁師と我が教会出身の本間義信師であった。海外の講師もさることながら、久保木、本間両師のメッセージは明晰で感銘を受けた。ここには、久保木師の説教の骨組みと聖句を紹介する。

説教題は「ただ一つのことを」
聖句は3つ、第一はヨハネ福音書9章25節、
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
ここから「ただ一つのことを知る」というメッセージ、これは聖歌451番に歌われているとおりで、久保木師はご自分の救いの証しをされた。
第二は、ルカ福音書10章42節、
「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
有名な、マルタ、マリヤの姉妹たちの話である。ここから、「ただ一つの必要」それは「マリアの座」であるとのお話しだった。
第三は、フィリピ3章13節、
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・」
このところから「ただ一つのことをする」。以上の三点は、英語で言えば動詞が変わるだけである。即ち、
Only once thing I know(need,do).
である。この三番目に、先に天に送られたご夫人の最後の闘病生活についても語られた。
久保木師は、北海道ケズィック・コンベンションの委員長で、ナザレン教会の牧師であるが、集会の後で個人的にお話しをすることが許された。私が札幌を離れる前の年に若くして札幌の教会に赴任され、以来40年以上、一つの教会で牧会に専念してこられた方である。私の母教会の前牧師、小林浩師とも親しく、いろいろ懐かしいお話もお聞きして感謝であった。久保木師と本間師の説教テープは、希望者にお貸ししたい。